『漢書』成帝紀を読んでみよう:その19

その18(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180415/1523718878)の続き。




四年春正月、行幸甘泉、郊泰畤、神光降集紫殿。大赦天下。賜雲陽吏民爵、女子百戸牛酒、鰥寡孤獨高年帛。
三月、行幸河東、祠后土、賜吏民如雲陽、行所過無出田租。
夏四月癸未、長樂臨華殿・未央宮東司馬門皆災。
六月甲午、霸陵園門闕災。
出杜陵諸未嘗御者歸家。
詔曰「乃者地震京師、火災婁降、朕甚懼之。有司其悉心明對厥咎、朕將親覽焉。」
又曰「聖王明禮制以序尊卑、異車服以章有徳、雖有其財、而無其尊、不得踰制、故民興行、上義而下利。方今世俗奢僭罔極、靡有厭足。公卿列侯親屬近臣、四方所則、未聞修身遵禮、同心憂國者也。或乃奢侈逸豫、務廣第宅、治園池、多畜奴婢、被服綺縠、設鐘鼓、備女樂、車服嫁娶葬埋過制。吏民慕效、𡫏以成俗、而欲望百姓儉節、家給人足、豈不難哉!詩不云乎?『赫赫師尹、民具爾瞻。』其申敕有司、以漸禁之。青䖝民所常服、且勿止。列侯近臣、各自省改。司隸校尉察不變者。」
秋七月辛未晦、日有蝕之。
(『漢書』巻十、成帝紀

永始4年。




大臣や近臣の贅沢を戒める詔が出された。


初、成都侯(王)商嘗病欲避暑、從上借明光宮。後又穿長安城、引内灃水注第中大陂以行船、立羽蓋、張周帷、輯濯越歌。上幸商第、見穿城引水、意恨、内銜之、未言。
後微行出、過曲陽侯第、又見園中土山漸臺似類白虎殿。
於是上怒、以讓車騎將軍(王)音。商・根兄弟欲自黥劓謝太后。上聞之大怒、乃使尚書責問司隸校尉・京兆尹「知成都侯商擅穿帝城、決引灃水、曲陽侯根驕奢僭上、赤墀青瑣、紅陽侯立父子臧匿姦猾亡命、賓客為羣盜、司隸・京兆皆阿縱不舉奏正法。」二人頓首省戸下。
又賜車騎將軍音策書曰「外家何甘樂禍敗、而欲自黥劓、相戮辱於太后前、傷慈母之心、以危亂國!外家宗族彊、上一身𥧲弱日久、今將一施之。君其召諸侯、令待府舍。」是日、詔尚書奏文帝時誅將軍薄昭故事。車騎將軍音藉槀請罪、商・立・根皆負斧質謝。上不忍誅、然後得已。
(『漢書』巻九十八、元后伝)

明言されていないが、その裏には当時の外戚王氏たちの奢侈が度を越していて、一度は成帝が激怒するほどであったという事情があったと思われる。



成帝は結局王氏を完全に叩いてしまう事には成功しなかったが、問題意識としては持ち続けていて、こういう機会に釘を刺しておいたのかもしれない。


むろん、皇帝自身というよりは丞相などの政策が通っただけなのかもしれないが。