父娘間の修羅場

臨邛中多富人、而卓王孫家僮八百人、程鄭亦數百人、二人乃相謂曰「令有貴客、為具召之。」并召令。令既至、卓氏客以百數。至日中、謁司馬長卿、長卿謝病不能往、臨邛令不敢嘗食、自往迎相如。相如不得已、彊往、一坐盡傾。酒酣、臨邛令前奏琴曰「竊聞長卿好之、願以自娯。」相如辭謝、為鼓一再行。是時卓王孫有女文君新寡、好音、故相如繆與令相重、而以琴心挑之。相如之臨邛、從車騎、雍容輭雅甚都。及飲卓氏、弄琴、文君竊從戸窺之、心悦而好之、恐不得當也。既罷、相如乃使人重賜文君侍者通殷勤。文君夜亡奔相如、相如乃與馳歸成都。家居徒四壁立。
(『史記』巻百十七、司馬相如列伝)

先日の記事の卓文君について。




卓文君の夫は司馬相如といい、漢の景帝から武帝にかけての既に名を知られた賦の作家であった。




富豪の卓王孫は彼を賓客として招こうと宴に連れ出したが、そこで卓王孫の娘の卓文君が彼に一目ぼれしてしまった。




司馬相如はこの時自分自身の財産には乏しかったのだが、卓文君は富豪卓氏の家を捨て、「四方に壁しかない」(家具も飾りもない)というような家に住む司馬相如のもとへ逃げた。



つまり駆け落ちである。






卓王孫大怒曰「女至不材、我不忍殺、不分一錢也。」人或謂王孫、王孫終不聽。文君久之不樂曰「長卿第倶如臨邛、從昆弟假貸猶足為生、何至自苦如此!」相如與倶之臨邛、盡賣其車騎、買一酒舍酤酒、而令文君當鑪。相如身自著犢鼻褌、與保庸雜作、滌器於市中。卓王孫聞而恥之、為杜門不出。昆弟諸公更謂王孫曰「有一男両女、所不足者非財也。今文君已失身於司馬長卿、長卿故倦游、雖貧、其人材足依也、且又令客、獨奈何相辱如此!」卓王孫不得已、分予文君僮百人、錢百萬、及其嫁時衣被財物。文君乃與相如歸成都、買田宅、為富人。
(『史記』巻百十七、司馬相如列伝)

この事態に父の卓王孫は激怒し、卓文君には一銭もやらんと発言。



卓文君は夫司馬相如の一カ月一万円生活並の貧窮生活にも限界が来たらしく、夫と共に自分の故郷(つまり卓王孫のいるところ)臨邛へ行き、馬車などの財産を売り払って酒場を開いて自分が酒場のママとなり、司馬相如は雇われ人と一緒に食器洗いをすることとなった。



自分の娘が駆け落ちしたあげく酒場で働いているということにいたく自尊心を傷つけられた*1卓王孫は家を出ないようになったが、「司馬相如は貧しいとはいえそれなりの人物だし県令の客になっているのだから」と親族がとりなした。

つまり、婿を迎え入れてパトロンになってはどうか、ということである。その方が娘が酒場のママになることもないだろう、ということだ。




こうして卓文君と司馬相如は卓文君の実家に迎えられ、財産の一部を与えられて財産家になることができた、ということである。







卓文君が酒場を始めたのは、もしかして父が音を上げるまで家名に泥を塗ろうという自爆テロだったんだろうか・・・?




まあ、最終的にはハッピーエンドと言っていいのだろうから、朱買臣とその妻の話より救いはある。



しかし、駆け落ちといい実の父との関係といい、卓文君は儒学的な観点からは相当にアレなことを連発しているような気がするので、孫権がひとことチクリと言ってやろうと思ったのもわからないでもない。




*1:現代ならいざ知らず、当時としては相当に家名を傷つけるような事態だったのだろう。