『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その3

その2の続き。


臨淮瓜田儀等為盜賊、依阻會稽長州。
琅邪女子呂母亦起。初、呂母子為縣吏、為宰所冤殺。母散家財、以酤酒買兵弩、陰厚貧窮少年、得百餘人、遂攻海曲縣、殺其宰以祭子墓。引兵入海、其衆浸多、後皆萬數。
莽遣使者即赦盜賊、還言「盜賊解、輒復合。」問其故、皆曰「愁法禁煩苛、不得舉手。力作所得、不足以給貢税。閉門自守、又坐鄰伍鑄錢挾銅、姦吏因以愁民。民窮、悉起為盜賊。」莽大怒、免之。其或順指、言「民驕黠當誅」、及言「時運適然、且滅不久」、莽説、輒遷之。
是歳八月、莽親之南郊、鑄作威斗。威斗者、以五石銅為之、若北斗、長二尺五寸、欲以厭勝衆兵。既成、令司命負之、莽出在前、入在御旁。鑄斗日、大寒、百官人馬有凍死者。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

臨淮の瓜田儀らが群盗となり、会稽の中洲に立てこもった。



琅邪の女性である呂母も蜂起した。もともと、呂母の子は県の官吏であったが県の長官(宰)に冤罪で殺された。呂母は家財を使い果たし、酒を売って武器や弩を買い、密かに貧しい若者たちを養って百人あまりを従え、ついに海曲県を攻めて県宰を殺し、子の墓前に供えた。呂母は兵を率いて海に出た。率いる人数が次第に増え、後には万単位の人数になった。



王莽は使者を派遣して群盗たちを赦免し、帰ってきた使者は「群盗は一旦解散しましたが、また結集しました」と報告した。その理由を尋ねると、みな「法による禁止事項が煩瑣で過酷であり、身の置き所がありません。仕事を真面目にしても税を払うのにも足りません。家の門を閉じて法を犯さないように生活していても、近隣が銅を違法所持していた罪で連坐し、悪い役人がそれを利用して民を苦しめています。民が苦しみ極まって、みな蜂起して群盗となっているのです」と答えた。王莽は激怒して彼らを罷免した。ある者は王莽の思いを忖度して「民が驕りたかぶり悪賢くなって群盗となっております。誅殺すべきです」「天運はまさにそうなるべきであり、滅びるのもそう遠くないでしょう」と答え、王莽は喜んでその者を昇進させた。



この年の八月、王莽は自ら南郊へ行き、「威斗」を鋳造した。
「威斗」とは五石(150キログラム位)の銅を使い、北斗を象り、長さ二尺五寸(56センチ位)で、敵兵を呪力で圧倒しようとするものであった。完成すると司命にそれを背負わせ、王莽が外へ出る時は前に置き、宮中に入っている時は傍らに置いた。
「威斗」を鋳造する日はとても寒くなり、役所の人馬に凍死者が出るほどであった。



王莽、亡国のテンプレを踏襲するの巻。



數歳、陳勝山東、使者以聞、二世召博士諸儒生問曰「楚戍卒攻蘄入陳、於公如何?」博士諸生三十餘人前曰「人臣無將、將即反、罪死無赦。願陛下急發兵撃之。」二世怒、作色。
叔孫通前曰「諸生言皆非也。夫天下合為一家、毀郡縣城、鑠其兵、示天下不復用。且明主在其上、法令具於下、使人人奉職、四方輻輳、安敢有反者!此特羣盜鼠竊狗盜耳、何足置之齒牙輭。郡守尉今捕論、何足憂。」二世喜曰「善。」
盡問諸生、諸生或言反、或言盜。於是二世令御史案諸生言反者下吏、非所宜言。諸言盜者皆罷之。迺賜叔孫通帛二十匹、衣一襲、拜為博士。
叔孫通已出宮、反舍、諸生曰「先生何言之諛也?」通曰「公不知也、我幾不脱於虎口!」
(『史記』巻九十九、劉敬叔孫通列伝)


秦の二世皇帝の時は、「これは反乱である」と言った者が処罰され、「群盗である」と言った叔孫通は褒賞された。今回、群盗の原因を分析して報告した者は罷免され、民が悪いと言った者は昇進した。

まあ、わかりやすいテンプレということなのだろう。



時呂母病死、其衆分入赤眉・青犢・銅馬中。
(『後漢書』列伝第一、劉盆子伝)


呂母の乱から数年後、樊崇がやはり琅邪で蜂起した。それがあの赤眉になるわけだが、呂母の集団の一部は赤眉に合流したそうな。




「威斗」であるが、素直に読むととてつもなく重い代物で、背負ったり持ったりできないのではないかと思ってしまうのだが、「五石の銅」全てを一つの「威斗」に使ったとも限らないか。



なんにせよ、強力なマジックアイテムを作成したということのようだ。但し残念ながら王莽にその能力は無い。