異姓を後継者にするということ

及(賈)充薨、(秦)秀議曰「充舍宗族弗授、而以異姓為後、悖禮溺情、以亂大倫。昔鄫養外孫莒公子為後、春秋書『莒人滅鄫』。聖人豈不知外孫親邪!但以義推之、則無父子耳。又案詔書『自非功如太宰、始封無後如太宰、所取必己自出如太宰、不得以為比』。然則以外孫為後、自非元功顯徳不之得也。天子之禮、蓋可然乎?絶父祖之血食、開朝廷之禍門。諡法『昏亂紀度曰荒』、請諡荒公。」不從。
(『晋書』巻五十、秦秀伝)


秦朗の息子(秦宜禄の孫)である秦秀は、徹底的と言えるほど賈充に批判的であったが、賈充死去の際には賈充の後継問題*1諡号についてこんな意見を出したという。




「賈充は礼を捨てて情に溺れて同じ姓の宗族ではなく異姓の孫(外孫)を選びました。これは祖先の祭祀を放棄する行いであります。また異姓の孫を後継者にできるのは賈充のような功績のある元勲だけと言いますが、天子の制度として、そのような不公平なことで良いのでしょうか?朝廷にとっての禍の種になるのではありますまいか。賈充には「制度を混乱させた」を意味する荒公という諡号がふさわしい」





武帝の腹心で次期皇后の父である人物に対してとんでもなくチャレンジャーな発言であるが、宗族を差し置いて異姓の孫を養孫として後継者にすることについては賈充の家臣も諌めており、当時の感覚では割と批判を浴びるような行為であったのだろう。





もっとも、晋初の朝廷には陳騫や甄徳のように「異姓が家を継いだ」一族も何人かいたので、賈充以外は絶対にやらないような暴挙というわけではない。


秦秀の発言に「おいやめろ」と思っていた者も賈氏以外にも案外少なくなかったのかもしれない。

*1:男子がいなかったため外孫(娘の産んだ子、すなわち姓が違う。)を後継者とした。