韋誕、かつての友人を語る

魚豢曰、尋省往者、魯連・鄒陽之徒、援譬引類、以解締結、誠彼時文辯之儁也。今覽王・繁・阮・陳・路諸人前後文旨、亦何昔不若哉?其所以不論者、時世異耳。余又竊怪其不甚見用、以問大鴻臚卿韋仲將。仲將云「仲宣傷於肥戅、休伯都無格檢、元瑜病於體弱、孔璋實自麤疏、文尉性頗忿鷙、如是彼為、非徒以脂燭自煎糜也、其不高蹈、蓋有由矣。然君子不責備于一人、譬之朱漆、雖無腊幹、其為光澤亦壯觀也。」
(『三国志』巻二十一、王粲伝注)

『典略』(『魏略』)の編者魚豢は、王粲ら文筆・弁論の徒が古代ほどの地位には登っていないということを不思議に思い、大鴻臚の韋誕に聞いてみたことがあったそうだ。




韋誕はおそらく蔡邕門下が中心と言っていい王粲らのグループと仲が良かった者の生きのこりであったのだろう。




韋誕によればこうだ。



「王粲は頑迷なところがあった。繁欽はキチッとしてなかった。阮瑀は病弱だった。陳琳は粗略なところがあった。路粋は怒りっぽくて荒々しい性格だった。彼らはただ動物の油脂のともしびで粥を温めるようなもの(彼らの能力に見合わない地位であったということか?)であったというだけではなく、高い地位に就けなかったことについてはそれなりの理由があったのである。しかし君子というのは全てが一人に備わっていなければいけないというものでもなく、漆塗りのようなもので、壁の柱や横木ではないとしても、その光沢は建物を壮観なものにすることができるのである」





どうやら、王粲らがあまり出世できなかったことにもそれなりの理由があった、と言いたいようだ。



王粲などはだいたい病死したせいではないのかという気もするが。




陳琳については節操なしという評もあったようなので、もしかしたらそのことも含めて言っているのかもしれない。