女性諡号問題

景獻羊皇后諱徽瑜、泰山南城人。父衜、上黨太守。后母陳留蔡氏、漢左中郎將邕之女也。
后聰敏有才行。景懐皇后崩、景帝更娶鎮北將軍濮陽呉質女、見黜、復納后、無子。
武帝受禪、居弘訓宮、號弘訓太后。泰始九年、追贈蔡氏濟陽縣君、諡曰穆。咸寧四年、太后崩、時年六十五、祔葬峻平陵。
(『晋書』巻三十一、后妃伝上、景献羊皇后)


晋の景帝司馬師の妻、羊徽瑜。




羊祜の姉であり、あの後漢末の蔡邕の孫にあたる人物である。




羊徽瑜は司馬炎の即位後は弘訓太后と呼ばれるようになり(つまり皇太后扱いということである)、皇太后・皇后の特権として、その生母に対して特別な地位が与えられることとなった*1



とはいえ母(蔡邕の娘)は既に世を去っていたため、「済陽県君」なる地位を追贈し、「穆」という諡号を贈ったのだという。






昨日の記事で彭城王の側が太妃の諡号を求めたという理由がなんかわかったわ。



ここの済陽県君に対する諡号のように、女性に対して諡号が与えられることが皇后・皇太后自身以外でも実際にあったから、諸侯王の正妻(母)ほどの貴人であれば皇太后の母同様に諡号が貰えてもいいじゃない、ということだったんだな。

*1:漢・魏の皇后・皇太后の生母に対してしばしば同種の措置が行われている。