董卓又議太后踧迫永樂宮、至令憂死、逆婦姑之禮、乃遷於永安宮、因進酖、弒而崩。在位十年。董卓令帝出奉常亭舉哀、公卿皆白衣會、不成喪也。合葬文昭陵。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、靈思何皇后)
(興平元年)於是有司乃奏追尊王美人為靈懷皇后、改葬文昭陵、儀比敬・恭二陵、使光祿大夫持節行司空事奉璽綬、斌與河南尹駱業復土。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、靈思何皇后)
霊帝の皇后で少帝弁の実母である何氏は文昭陵に葬られた。
献帝即位後に献帝の実母王夫人は霊帝の皇后の地位を追贈され、彼女も文昭陵に葬られた。
この「文昭陵」とは、霊帝陵である「文陵」のことだろう。
何皇后が霊帝と同じ陵に葬られるから、董卓は霊帝陵の財物を取り出すことができたのである。
当時から「文昭」を「文」と略する表記があったのか、それとも後世「昭」の字を避けた結果こうなったのかわからんが。
それにしても、王夫人を殺したのはほかならぬ何氏なので、殺人者と被害者が同じ陵墓に入れられたことになるのだろうか。