『潜夫論』を読んでみよう−救辺篇その4

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140903/1409672413の続き。



折衝安民、要在任賢、不在促境。齊魏却守、國不以安。子嬰自削、秦不以在。武皇帝攘夷拆境、面數千里、東開樂浪、西置敦煌、南踰交阯、北築朔方、卒定南越、誅斬大宛、武軍所嚮、無不夷滅。今虜近發封畿之内、而不能擒、亦自痛爾、非有邊之過也。唇亡齒寒、體傷心痛、必然之事、又何疑焉?君子見機、況已著乎?
乃者邊害震如雷霆、赫如日月、而談者皆諱之、曰焱并竊盜、淺淺善靖、俾君子怠、欲令朝廷以寇為小、而不蚤憂、害乃至此、尚不欲救。諺曰「痛不著身言忍之、錢不出家言與之。」假使公卿子弟有被羌禍、朝夕切急如邊民者、則競言當誅羌矣。
(『潜夫論』救辺第二十二)


敵を防ぎ民を守るのは、賢者を任用することが肝要であり、辺境を近づけることにはない。


斉や魏が退いて守っても国は不安になったし、秦の子嬰が自ら国を削り皇帝から王となっても結局は滅んでしまった。





武帝は異民族を退け辺境を開拓し、東は楽浪郡を開き、西は敦煌郡を置き、南は交阯郡を越え、北は朔方郡を築き、最後には南越や大宛を討ち、軍が向かうところ敵なしであった。



しかし今は異民族は内地近辺からも出現しているのに捕えることもできていない。痛ましい事であり、これは辺境に責任があることではないのである。



唇が亡くなれば歯が寒くなり、身体が傷つけば心臓が痛む、これは当然の事である。


君子であれば前兆も見逃さないものであるのだ。まして既に明らかになっていることだから理解できて当然のことなのである。





先に辺境の受けた被害は明明白白であるのに、群臣は「ただの盗賊です」などと偽って君子たちが対策するのを怠らせ、朝廷が辺境の被害を小さく見積もることとなり後手に回ったことで被害が拡大したのである。


それなのにいまだに救おうとしない。




諺に「自分が痛まなければ「我慢しろ」と言い、自分の財布から出さないなら軽く「金を出してやる」と言うものだ」というのがある。




もし三公九卿ら大臣の子弟が直接に羌族の被害を涼州の住人同様に受けていたなら、大臣たちはみな競って「羌族討つべし」と主張していたことだろう。


數歳、陳勝山東、使者以聞。二世召博士諸儒生問曰「楚戍卒攻蘄入陳、於公如何?」博士諸生三十餘人前曰人臣無將、將即反、罪死無赦。願陛下急發兵撃之。」二世怒、作色。叔孫通前曰「諸生言皆非也。夫天下合為一家、毀郡縣城、鑠其兵、示天下不復用。且明主在其上、法令具於下、使人人奉職、四方輻輳、安敢有反者!此特羣盜鼠竊狗盜耳、何足置之齒牙輭。郡守尉今捕論、何足憂。」二世喜曰「善。」盡問諸生、諸生或言反、或言盜。於是二世令御史案諸生言反者下吏、非所宜言。諸言盜者皆罷之。迺賜叔孫通帛二十匹、衣一襲、拜為博士。叔孫通已出宮、反舍、諸生曰「先生何言之諛也?」通曰「公不知也、我幾不脱於虎口!」
(『史記』巻九十九、叔孫通伝)

群臣が「ただの盗賊です」と言っているというのは、おそらくこれを踏まえた表現であろう。



つまり、迫る危機から目をつぶっていたという、秦帝国が滅びる寸前の末期的な状態と一致している、と王符先生は暗に言っているのだ。




また更に、「宰相や大臣たちは自分の子弟が被害を受けていたら打倒羌族と言っていただろう」というのも、つまりは「大臣どもは個人的な利害しか頭に無い」とこき下ろしていることになる。






王符先生の政府(大臣)に対する不信と不満は本当に根深い。


もうかなりギリギリ限界までアクセルベタ踏みしてかっ飛ばしている感がある。