昨日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140506/1399306166)などで、延康元年頃に敦煌・酒泉に新たに太守が送り込まれたのではないかということを述べた。
だが考えてみると、それまで長年太守派遣をせずに放置し、隴西方面を平定してもすぐには送らないでいた中央政府(曹氏政権)が、なぜここにきて太守派遣してきたのか。
そこには何らかの理由や事情があると考えてしかるべきだろう。
二月、鄯善・龜茲・于闐王各遣使奉獻。詔曰「西戎即敍、氐・羌來王、詩・書美之。頃者西域外夷並款塞内附、其遣使者撫勞之。」是後西域遂通、置戊己校尉。
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初三年)
それは、これが関係あるのではないだろうか。
魏の文帝曹丕が皇帝の位を漢から譲られてさほど経っていない黄初三年。
西域から鄯善・龜茲・于闐の三国の王が使者を派遣し貢物を献上した、というのである。
これら西域諸国は敦煌以東の道が通れないと使者派遣など事実上できないのだから、敦煌・酒泉などの河西回廊の四郡が安定化しないうちは中国に使者をよこすわけがない。
延康元年に各郡に太守を置いて政府(曹丕)のコントロール下に置こうという試みがなされたのは、この西域諸国の使者を招き入れるためであると考えることができる。
というのは、当時の魏は禅譲前後の時期であり、出来る限り権威づけとなるような成果が必要であったと思われるからだ。
禅譲その物に必須ではないにしても、「再び西域が貢物を献上しに来た」といったニュースは当時の人々に漢の最盛期にも匹敵する太平の世の到来が間近であると印象付けることができる慶事であろう。
魏としては是非とも欲しい勲章なのである。
魏はできるだけ早く西域からの使者を受け入れ宣伝する必要があった。
だから、おそらくは着々と禅譲の準備が進んでいたと思われる建安末から延康元年にかけて、その禅譲の一環として、河西四郡の支配を強めようとしたのだと思われる。
あるいは、今まで放置同然だったのに急に支配を強めたことが延康元年の反乱の一因になった可能性もあるのかもしれない。
そして、更に意地の悪い見方をするなら、曹操・曹丕が禅譲の前後という最も宣伝効果が高くなる時期を待っていたために、ずっと不在だった敦煌太守の赴任が延康元年まで遅れに遅れた、と言うこともできるのかもしれない*1。