伍子胥の怨霊

永平八年、舉孝廉、稍遷、建初中拜楊州刺史。
當過江行部、中土人皆以江有子胥之神、難於濟渉。(張)禹將度、吏固請不聽。禹窅言曰「子胥如有靈、知吾志在理察枉訟、豈危我哉?」遂鼓楫而過。歴行郡邑、深幽之處莫不畢到、親録囚徒、多所明舉。吏民希見使者、人懐喜悦、怨徳美惡、莫不自歸焉。
(『後漢書』列伝第三十四、張禹伝)

後漢の時代、張禹という者が揚州刺史となった。



そこで領域内を見回ろうと思ったところ、中原出身の人間は皆「長江には伍子胥の怨霊がいるので長江を渡ることが出来ない」と言い、行きたがらない。



張禹は行こうとしたが部下たちが止めようとするので、「伍子胥の怨霊がもしいたとしても、私は領内を見回りしようとしているのだから、どうして我々に危害を加えることがあろうか?」と言い、ついに長江を渡って領内の見回りを実行した。






おそらく、伍子胥の怨霊が中原人に仇なすという迷信があったのだろう。




ということは、いつ始まったか分からないが少なくとも張禹までは刺史がやってきても長江南岸を刺史本人が見回って監察することはなかったと思われる。



現地の人間が示し合わせてそういう風説を作り上げ、中央の監査の手が入るのを避けようとしていた、という可能性もあるかもしれない。現地の人間だけで監査するとなれば正直いくらでも隠蔽やら何やらのしようはあるだろうから(もちろん、真剣に信じられていただけかもしれないが)。