司馬遷の書を読んでみよう1

(司馬)遷既被刑之後、為中書令、尊寵任職。故人益州刺史任安予遷書、責以古賢臣之義。遷報之曰・・・(後略)・・・
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)

漢書』には、かの司馬遷(手術後)が知人任安に宛てた手紙が収録されている。



知っている人も少なくないだろうが、一度その全文に目を通してみようと思う。そこから(手術後)司馬遷の心境などを読み取ることができるかもしれないからだ。





だがまずは、司馬遷が手紙を送った「任安」について確認しておいたほうがいいだろう。



褚先生曰、臣為郎時、聞之曰田仁故與任安相善。任安、滎陽人也。少孤貧困、為人將車之長安、留、求事為小吏、未有因縁也、因占著名數 。武功、扶風西界小邑也、谷口蜀剗道近山。安以為武功小邑、無豪、易高也、安留、代人為求盜亭父。後為亭長。
(『史記』巻一百四、田叔列伝)

任安は滎陽の貧しい家の出であったが、故郷を離れて亭の役人から亭長となった。



その後更に頭角を現した彼はかの衛青の元に身を寄せることとなる。


其後有詔募擇衛將軍舍人以為郎、將軍取舍人中富給者、令具鞌馬絳衣玉具劍、欲入奏之。會賢大夫少府趙禹來過衛將軍、將軍呼所舉舍人以示趙禹。趙禹以次問之、十餘人無一人習事有智略者。趙禹曰「吾聞之、將門之下必有將類。傳曰『不知其君視其所使、不知其子視其所友』。今有詔舉將軍舍人者、欲以觀將軍而能得賢者文武之士也。今徒取富人子上之、又無智略、如木偶人衣之綺繡耳、將奈之何?」於是趙禹悉召衛將軍舍人百餘人、以次問之、得田仁・任安、曰「獨此両人可耳、餘無可用者。」
(『史記』巻一百四、田叔列伝)


衛蒼の元でも貧しさから粗略に扱われた任安であったが、衛青の元から郎を選ぶことになったとき、時の大臣趙禹が任安(と田仁)を選んだことから彼の運命が変わる。



有詔召見衛將軍舍人、此二人前見、詔問能略相推第也。田仁對曰「提桴鼓立軍門、使士大夫樂死戰鬬、仁不及任安。」任安對曰「夫決嫌疑、定是非、辯治官、使百姓無怨心、安不及仁也。」武帝大笑曰「善。」使任安護北軍、使田仁護邊田穀於河上。此両人立名天下。
其後用任安為益州刺史、以田仁為丞相長史。
(『史記』巻一百四、田叔列伝)

武帝にも気に入られた任安は皇帝直属軍である北軍の監督官や益州刺史といった要職を任されるようになった。



まあ、武帝の側近、懐刀的な存在であったと言ってよいのではなかろうか。




是時任安為北軍使者護軍、太子立車北軍南門外、召任安、與節令發兵。安拜受節、入、閉門不出。武帝聞之、以為任安為詳邪、不傅事、何也?任安笞辱北軍錢官小吏、小吏上書言之、以為受太子節、言「幸與我其鮮好者」。書上聞、武帝曰「是老吏也、見兵事起、欲坐觀成敗、見勝者欲合從之、有両心。安有當死之罪甚衆、吾常活之、今懐詐、有不忠之心。」下安吏、誅死。
(『史記』巻一百四、田叔列伝)

だが、武帝の皇太子が反乱を起こすという事件があった際、北軍の監督官であった任安は、一旦は皇太子に従う姿勢を見せながら軍営の門を閉めて閉じこもったのだが、これが「皇帝と皇太子を天秤にかけていた」と判断され、最終的には処刑されることとなった。






まとめると、任安というのは、武帝の側近、近臣と言っていいが、その一方でしばしば罪を得ることもあり、最終的には武帝の怒りに触れて処刑された人物であったようだ。




まず、司馬遷の書を読み解くには、相手にそういった背景があることを念頭に置くのがよさそうだ。




本文は次回。