李左車は李牧のなんなのさ

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20091104/1257261711で既にネタにしたように、韓信が趙を攻めたときに出てきた李左車は李牧の孫だということになっているそうだ。




その伝についてはまあぶっちゃけ疑問符を付けずにはおれないが、状況証拠的なものがあったからこそそういう伝が生まれたという面はあるのだろう。




この時代、将軍というのは家業と言う面があったようで、王翦などの例を見てもわかるように何代も続けて将となっている。



そして李左車も韓信が侵攻してきた際に趙王と陳余に対し、「願足下假臣奇兵三萬人、從輭道絶其輜重」(『史記』淮陰侯列伝)と自ら兵を率いたいと申し出ており、将軍を家業とする家の人間である可能性が高いと言えるのではないだろうか。




趙の重臣で将軍を家業としていそうで李姓の人間・・・といえば、やはり李牧が連想されるのは当然のなりゆきだろう。




しかも李左車は「広武君」という称号があったらしい。


同じ「君」同士、成安君陳余と同格なのではないか。




前漢文帝の時の馮唐の話から察するに、趙では李牧は判官贔屓気味に人気があったのだろうから、陳余らはその子孫李左車に高い地位を与えて人気取りを図ったのではなかろうか。



しかし外様の陳余としては、そんな地元の人気者の子孫が手柄を立てて必要以上に目立ってもらいたくはない(あまりに人気が出すぎると自分の地位を脅かす)から、李左車の策を却下する必要があったのだろう。





つまり、李左車を李牧の子孫と認定する後世の系図は、根拠あるものかどうかは怪しいかもしれないが、割と本質は突いていたのではないか、ということである。