『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その31

その30(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181208/1544195216)の続き。





三年冬十月、韓信張良及曹參等破代、擒夏説。
進伐趙、獲趙王歇、斬成安君陳餘。
韓信之伐趙也、廣武君李左車説成安君陳餘曰、漢兵乗勝遠鬥、其鋒不可當也。臣聞千里餽糧、士有飢色、樵蘇後爨、師不宿飽。今井陘之道、車不得方軌、騎不得成列、行數百里、其勢糧食必在後。願足下假臣奇兵三萬人、從間路絶其輜重、足下深溝高壘勿與戰、彼前則不得鬥、退則不得還、野無所掠、不十日、両將之頭可懸于麾下矣。陳餘曰、韓信兵號數萬、千里徑來襲我、亦不罷勞。今我二十萬、避而不撃、後有大者、何以距之、諸侯謂吾怯而輕來伐我。不聽。
韓信使人闚之、知其不用廣武君計、乃敢進兵。未至井徑口三十里、止舍。夜半選輕騎二千人、人持一赤幟、從間道萆山而望趙軍。信戒曰、趙見我走、必空壁逐我。汝疾入、拔趙幟、立漢赤幟。乃使萬人先行、背水為陣。平旦、信建大將旗鼓出井陘口。趙開壁撃之、大戰良久。於是信耳佯不勝、偽棄旗鼓、走還水上軍。趙空壁爭漢旗鼓、逐信耳。於是二千騎馳入趙壁、皆拔趙幟、立漢赤幟二千。趙軍不能敗水上軍、乃還、見漢赤幟、大驚、以為漢皆已破趙衆矣、遂亂而走。趙將雖斬之不能禁。於是漢兵夾撃大破之。既而諸將問信曰、兵法右背山陵、前左水澤。今將軍令臣等反背水陣、何也。信曰、置之死地而後生、此兵法也。且信非得素拊循士大夫也、所謂驅市人而戰。故置之死地、既人人自為戰。即與生地皆走、尚安得而用之乎。諸將皆服曰、非所及也。
信令軍中曰、生得廣武君購千金。信得之、乃東面師事之。問曰、吾欲北攻燕、東伐齊、何如。對曰、敗軍之將不可以語勇。亡國之大夫不可以圖存。又何問焉。信曰、向使成安君聽子之計、則信亦將為子擒矣。固問之。對曰、足下威振諸侯、名聞海内、然士卒罷勞、其實難用。今足下舉倦弊之兵、頓之燕堅城之下、情見力屈、曠日糧竭。若燕不拔、齊必距境以自彊。二國相持、則劉・項之權、未有所分也。不如按甲休兵、日享士卒、大夫北首燕路。然後使一乗之使、奉咫尺之書、燕不敢不從。燕從而臨齊、齊雖有智者、亦不能為齊計也。兵法固有先聲而後實者、此之謂也。信曰、善。
乃發使使燕、燕聽命。於是請立張耳為趙王、以拊循趙衆。
甲戌晦日有食之。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第二)

韓信、趙を討つ。



有名な「背水の陣」である。項羽は力押しのために使ったが、今回は練度の低い兵を持ちこたえさせるための策と言う事のようだ。



なお、趙の将(参謀?)として出てくる李左車は、かの李牧の孫であるという話が一応ある





そして韓信は李左車の戦略に従い、兵を休めた上で燕王(臧荼)に使者を送り、燕を従わせる事に成功した。





項羽の西および北にいる勢力で劉邦に従っていないのは斉だけとなった。