燕県

明年使於譙、太祖問(蔣)濟曰「昔孤與袁本初對官渡、徙燕・白馬民、民不得走、賊亦不敢鈔。今欲徙淮南民、何如?」濟對曰「是時兵弱賊彊、不徙必失之。自破袁紹、北拔柳城、南向江・漢、荊州交臂、威震天下、民無他志。然百姓懷土、實不樂徙、懼必不安。」太祖不從、而江・淮間十餘萬衆、皆驚走呉。後濟使詣鄴、太祖迎見大笑曰「本但欲使避賊、乃更驅盡之。」拜濟丹陽太守。
(『三国志』巻十四、蔣済伝)


曹操が蔣済に「官渡の戦いの時には燕県・白馬県の住人を強制移住させたが、民は逃げなかったし袁紹もひっ捕らえに来なかった。今回も淮南の民を強制移住させようと思うんだが、どうかな?」と聞いた。



蔣済は「あの時はこちらの兵は弱く敵が強いため強制移住させるしかなかったし、その後袁紹を倒したり天下を震わせる威信を見せたから民も逃げたりする気を起こさなかったのです。しかし民というのはもともと土地に着く存在で強制移住は望んでいませんので、安定しないのではないでしょうか」と答えた。




案の定民は大量に呉へ逃げ出しましたチャンチャン、というオチの話。





何でこの話を取り上げたかというと、袁紹との戦いで曹操強制移住させていたのは包囲されていた白馬の民だけではなく隣の燕県もだったらしい、ということが目についたから。それだけ。