漢自東京大亂、絶無金石之樂、樂章亡缺、不可復知。及魏武平荊州、獲漢雅樂郎河南杜夔、能識舊法、以為軍謀祭酒、使創定雅樂。時又有散騎侍郎訒靜・尹商善訓雅樂、歌師尹胡能歌宗廟郊祀之曲、舞師馮肅・服養曉知先代諸舞、夔悉總領之。遠詳經籍、近採故事、考會古樂、始設軒懸鍾磬。而黄初中柴玉・左延年之徒、復以新聲被寵、改其聲韵。
(『晋書』巻二十二、楽志上)
そんな時、曹操が荊州を平定したときに捕まえたのが雅楽郎の杜夔という人物だった。
彼は雅楽の復活に力を突くしたという。
だが、魏の文帝の時代になると、柴玉や左延年といった者たちが新たな流行曲で文帝に気に入られ、雅楽も彼ら好みに変更されたのだとか。
当時も「音楽性の違い」というのはあったようだ。