而黄初中柴玉・左延年之徒、復以新聲被寵、改其聲韵。
(『晋書』巻二十二、楽志上)
後漢末に杜夔が中心となって復興した雅楽は、黄初すなわち魏の文帝曹丕の時代になって柴玉や左延年らによってニューミュージック風に改変された、のだそうな。
漢鑄鐘工柴玉巧有意思、形器之中、多所造作、亦為時貴人見知。(杜)夔令玉鑄銅鐘、其聲均清濁多不如法、數毀改作。玉甚厭之、謂夔清濁任意、頗拒捍夔。夔・玉更相白於太祖、太祖取所鑄鐘、雜錯更試,然後知夔為精而玉之妄也、於是罪玉及諸子、皆為養馬士。
(『三国志』巻二十九、杜夔伝)
先日の記事で既に紹介した文だが、後漢末には既に柴玉は楽器の世界にニューミュージックを持ち込もうとして杜夔と曹操にダメ出しされて処分された。
見方によっては、古い音楽しか認められない頭の固い連中に冷や飯食わされていたところを若き聖王が良き理解者となり、新たな時代の音楽の旗手として存分に力を発揮したのだ、と考えられなくもない。