會(王)莽妻病困、(王)臨予書曰「上於子孫至嚴、前長孫・中孫年倶三十而死。今臣臨復適三十、誠恐一旦不保中室、則不知死命所在!」
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)
新の王莽には正妻との間に息子が4人いた。
長男の王宇とその次の王獲は罪があり、王莽は自殺を命じた。
その次の王安は相当なボンクラであったらしい。
末っ子の王臨は王莽の皇太子となっていたが、その後皇太子の座を追われていた。
王臨は自分まで王莽に死を賜るのではないかと戦々恐々となっていたらしい。
彼は「長孫・中孫はともに30歳で死んでいます」と言っている。
おそらく長孫は長兄王宇、中孫は次兄王獲の字であろう。
ということは、王宇が死ぬこととなった事件は平帝の元始3年すなわち紀元3年のことであるから、このとき王宇は30歳位だったことになる。
王莽は紀元前45年の生まれであるから・・・王莽が17、8歳くらいに生まれた子供ということなのだろうか。
王莽やることはしっかりやってたんやね。