王会宗

皇孫功崇公宗坐自畫容貌、被服天子衣冠、刻印三、一曰「維祉冠存己夏處南山臧薄冰」、二曰「肅聖寶繼」、三曰「徳封昌圖」。又宗舅呂𥶡家前徙合浦、私與宗通、發覺按驗、宗自殺。
莽曰「宗屬為皇孫、爵為上公、知𥶡等叛逆族類、而與交通、刻銅印三、文意甚害、不知厭足、窺欲非望。春秋之義、『君親毋將、將而誅焉。』迷惑失道、自取此辜、烏呼哀哉!宗本名會宗、以制作去二名、今復名會宗。貶厥爵、改厥號、賜諡為功崇繆伯、以諸伯之禮葬于故同穀城郡。」
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

王莽の孫にあたる王宗という者は、王莽が皇帝になるともちろん高い地位につけられていたが、かつて謀反の首謀者として断罪された母の兄にあたる呂寛の一族と連絡を取っていた。



さらに彼は自分が天子コスを身に着けたコラ画像を作っていたりしていた。




外戚と結んでクーデター起こして自分が皇帝になろうとしている」という疑惑があったことになり、彼は逮捕され自殺した。






その後、王莽は彼に対し、こんな処分を下したという。




王宗はもともと「王会宗」という名前、つまり二字名であったが、王莽が二字名を禁じた際に変更したらしい。


王莽は敢えて彼の名を二字名に戻させたというのだ。





少なくとも王莽にとっては、二字名を使わせるということは新王朝に属する者としては屈辱的な扱いに当たると考えていたことになる。




二字名は「二字名を名乗ることは恥ずかしいこと」だという意識があったから禁じられたということだろうか。