漢の漢たちを語る6「俺はまだ本気出してないだけ」:公孫賀

前漢武帝の頃の将軍に公孫賀という人物がいる。


彼は祖父が将軍となって戦功を立てて列侯になったことのあるという家の出で、かの衛青の姉を妻としていた。




衛青の姉ということは皇后の姉ということであるので、彼は武人として出世し、同時に皇帝の御者兼全国の国家管理馬匹専門大臣である太僕に抜擢された。

太僕(公孫)賀、三十三年遷。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、建元六年)


この数字は数えてみると誤りではない。


彼は時に将軍となりながらずっと太僕に在任し、三十三年務めつづけたようなのだ。



自公孫弘後、丞相李蔡・嚴青翟・趙周三人比坐事死。石慶雖以謹得終、然數被譴。
初(公孫)賀引拜為丞相、不受印綬、頓首涕泣曰「臣本邊鄙、以鞍馬騎射為官、材誠不任宰相。」上與左右見賀悲哀、感動下泣、曰「扶起丞相。」賀不肯起、上乃起去、賀不得已拜。出、左右問其故、賀曰「主上賢明、臣不足以稱、恐負重責、從是殆矣。」
(『漢書』巻六十六、公孫賀伝)

そんな彼はついに人臣の最高位、丞相に昇ることになった。


しかしその印綬を受け取らず、辞退しようとする公孫賀。

彼は、武帝の厳しい譴責や追及が怖かったらしい。




だが、彼が無能とかヘタレとか言うのは違うだろう。


そんな人物がその武帝のそば仕えと言える太僕を何十年も続けられるものとは思えない。




しかし、彼は丞相もまた長年務めた。


丞相生活も12年ほど続いているのだ。

実はこれは物凄く長い。こんなに長く宰相を続けているのは前漢では蕭何くらいである。




だが、彼の息子公孫敬声が不祥事を起こす。


公孫敬声は父の後に太僕となっていたのだが、盛大な使い込みが発覚して逮捕されたのだ。

このままではヘタすれば死罪である。




丞相就任を泣いて嫌がった公孫賀は、不肖の息子の危機に立ちあがることができるのか?


できる、できるのだ。


是時詔捕陽陵朱安世不能得、上求之急、賀自請逐捕安世以贖敬聲罪。上許之。後果得安世。
(『漢書』巻六十六、公孫賀伝)


公孫賀は、武帝が勅命で追っていたお尋ね者の朱安世なる者を捕えることをもって息子の罪を贖いたい、と申し出た。



そして、公孫賀は朱安世逮捕を成功させたのである。



彼は、実力がないのではない。

おそらく、武帝に逆らう事のないよう、波風を立てることのないよう、なるべく目立たないようにしていたのではなかろうか。
その気になれば「デキる」のである。

だからこそ長年同じ地位に居続けられたのだろう。



安世者、京師大俠也、聞賀欲以贖子、笑曰「丞相禍及宗矣。南山之竹不足受我辭、斜谷之木不足為我械。」安世遂從獄中上書、告敬聲與陽石公主私通、及使人巫祭祠詛上,且上甘泉當馳道埋偶人、祝詛有惡言。下有司案驗賀、窮治所犯、遂父子死獄中、家族。
(『漢書』巻六十六、公孫賀伝)


だが、結局はこの本気が命取りとなった。

朱安世は「丞相の禍は一族全部に及んでしまうなあ」と不気味に笑い、公孫敬声の密通と皇帝の呪詛を告発したのである。

この自爆テロによって事件は使い込みから皇帝を呪詛するという大逆事件へと様相を変えることとなり、公孫敬声ひとりではなく公孫賀まで一族全員が誅殺された。


いわゆる巫蠱事件の幕開けであった。




どうやら、公孫賀は実力を出さないままにしておいた方が良かったようだ。