反乱した太子の孫として生まれて獄中で乳を飲んだ幼き日の漢の宣帝。
その後、彼を育ててきたのは誰であったか。
それは張賀という宦官であった。
初、(張)安世兄賀幸於衛太子、太子敗、賓客皆誅、安世為賀上書、得下蠶室。
後為掖庭令、而宣帝以皇曾孫收養掖庭。賀内傷太子無辜、而曾孫孤幼、所以視養拊循、恩甚密焉。及曾孫壯大、賀教書、令受詩、為取許妃、以家財聘之。
曾孫數有徴怪、語在宣紀。賀聞知、為安世道之、稱其材美。安世輒絶止、以為少主在上、不宜稱述曾孫。及宣帝即位、而賀已死。上謂安世曰「掖庭令平生稱我、將軍止之、是也。」
(『漢書』巻五十九、張安世伝)
彼はかの有名な酷吏張湯の子であるが、皇太子の近臣であったらしい。
しかし皇太子が武帝に弓を引く事件によって彼もまた皇太子らと共に罰を受けることとなった。
弟張安世の助命嘆願によって宮刑で済んだのである。
後宮の役人、掖庭令となった張賀は、そこで獄を出て後宮で育てられることになった皇太子の孫、すなわちのちの宣帝と出会う。
張賀は宣帝のために骨を折り、宣帝に自腹で儒学の師を付けてやったりしたという。
彼の動機はおそらくは「皇太子の血を引く唯一の人物」を、皇太子の恩に報いるために守り育てることだったのだろう。
彼の行動は後に張氏全体に大きなリターンをもたらすことになるが、彼自身はそんなリターンを期待して宣帝を養育したのではないのだろう。
時掖庭令張賀、本衛太子家吏、及太子敗、賀坐下刑、以舊恩養視皇曾孫甚厚。及曾孫壯大、賀欲以女孫妻之。是時、昭帝始冠、長八尺二寸。賀弟安世為右將軍、與霍將軍同心輔政、聞賀稱譽皇曾孫、欲妻以女、安世怒曰「曾孫乃衛太子後也、幸得以庶人衣食縣官、足矣、勿復言予女事。」於是賀止。
(『漢書』巻九十七上、孝宣許皇后伝)
張賀は自分の孫娘を宣帝の妻にしようとまで考えていたが、当時朝廷の重鎮となっていた弟の張安世が慌てて止めたという。
この時の皇帝は武帝の末子昭帝。
まだ若く、後継者も定まっていない時であった。
こんな時に武帝の血を引く皇子と縁組したなどというのは、張安世と張賀にとっては危険極まりないことなのである。
張賀も弟に言われなくてもそれを理解していなかったわけではないはずだ。
ただ、彼にとっては皇太子の孫の事がすべてだったのだろう。
皇太子の孫と縁組したい、その気持ちだけだったのではなかろうか。
それに、死後に名誉回復されたとはいえ反乱者の孫という身の上では大した家柄とは縁組できないことは火を見るより明らかであるから、縁組してくれる家で少しでも見栄えのいい家となると自分のところしか思い当らなかったのかもしれない。
上追思賀恩、欲封其冢為恩徳侯、置守冢二百家。賀有一子蚤死、無子、子安世小男彭祖。彭祖又小與上同席研書、指欲封之、先賜爵關内侯。故安世深辭賀封、又求損守冢戸數、稍減至三十戸。上曰「吾自為掖庭令、非為將軍也。」安世乃止、不敢復言。
(『漢書』巻五十九、張安世伝)
宣帝が皇帝になる頃、既に張賀は死んでいた。
宣帝は張賀の恩に報いようと、彼の墓に墓守を置いて列侯の爵位を贈り、彼の後継ぎにその列侯を継がせた。
これについては、宣帝は何事も辞退したがる弟張安世にさえ文句を言わせなかった。
張賀が皇太子の恩義に報いたように、宣帝は張賀の恩義に報いたのである。
そしてその墓の場所は宣帝自らが若き日に遊んだ闘鶏小屋のそばを選んだという。
きっと、宣帝の好きだった闘鶏は張賀が金を出してやらせてやった娯楽だったのだろう。
陰惨とさえ言える生い立ちの宣帝が、特別不自由を感じずに勉学から遊びから好きなようにできたのは、ほとんどが張賀のお蔭だったのではなかろうか。
楽しかった青春の思い出の場所だからこそ、それを与えてくれたのが張賀だからこそ、宣帝はそこを選んだのではないか。
宣帝の青春の輝きは、張賀によって守られていたのだ。