唐突だが、常々思ってはいたがやはり前漢の人物たちは世間に知られていないので、ここで微力ながらアピールしていこうと思う。
第1回目は「張放」。
張放は富平侯張安世の玄孫で5代目の富平侯である。ということはあの武帝時代の張湯の子孫である。
ちなみに富平侯は当時ダントツに最大の領地を持つ列侯である。
彼は更に元帝の娘を母に持つ皇帝の血縁者でもあり、当時の漢王朝でも最高級のサラブレッドと言ってよいだろう。
その上に皇帝(成帝)の皇后許氏の姪を妻に迎えていたりする。
そんな彼は当時の皇帝成帝から大変に気に入られた存在だった。
鴻嘉中、上欲遵武帝故事、與近臣游宴、放以公主子開敏得幸。放取皇后弟平恩侯許嘉女、上為放供張、賜甲第、充以乘輿服飾、號為天子取婦、皇后嫁女。大官私官並供其第、兩宮使者冠蓋不絶、賞賜以千萬數。
放為侍中中郎將、監平樂屯兵、置莫府、儀比將軍。
與上臥起、寵愛殊絶、常從為微行出游、北至甘泉、南至長楊・五莋、鬬雞走馬長安中、積數年。
(『漢書』巻五十九、張放伝)
彼は中郎将となって宮殿内の屯兵の一部を掌握したばかりでなく、成帝とは寝所を共にすることもあったという。
これは哀帝と董賢などと同種の表現であるので、ホモォ…的な想像をすることを止める気はない。
しかし彼のもっとも重要な任務は皇帝陛下の菊門を突貫することではない。
成帝毎微行出、常與張放倶、而稱富平侯家、故曰張公子。
(『漢書』巻九十七下、孝成趙皇后)
しばしば宮殿を抜け出してお忍びで長安の街に繰り出していた成帝は、お忍びの際は「富平侯の人間」と称し、「張公子」と呼ばれたという。
つまり張放は自分の名前を成帝に貸していたのだ。
もちろん、名前を貸しただけではなく、彼はおそらく成帝の親衛隊長だったのだろう。
彼が将軍の如く指揮したという兵も、成帝外出時の親衛隊なのではないだろうか。
宮殿抜け出しが大好きだった成帝にとって、張放はかけがえのない臣下であったのである。
だがそんな二人を大臣や外戚などの偉い人たちは良く思わない。
まあ当然だ。ホモォ疑惑といい、宮殿抜け出しといい、大臣たちの目から見たら許容できることとは到底言えない。
張放さえいなければやめるんじゃないか、ということなのだろう。
儒者の大臣も外戚も珍しく意見が一致して再三張放を訴え、更に皇太后すなわち皇帝陛下の母上様までも張放を目の仇にするので、ついに成帝も張放を手放さざるを得なくなった。
歳餘、丞相(翟)方進復奏放、上不得已、免放、賜錢五百萬、遣就國。數月、成帝崩、放思慕哭泣而死。
(『漢書』巻五十九、張放伝)
そしてその後成帝は急死するのだが、張放はそれを聞くと後を追うように死んでしまったと言う。
この一途さは単なるお気に入り、特に親しい親戚というだけの関係ではないのだろう。
これだけの純粋な気持ちを抱く臣下を持てた皇帝はそれだけで幸せなのかもしれない。
さあ、みんな成帝と張放の関係をあれこれ考えて薄い本を厚く積み重ねる作業に戻るんだ!