霍光の末裔

建初七年、車駕西巡狩、以(韋)彪行太常從、數召入、問以三輔舊事、禮儀風俗。彪因建言「今西巡舊都、宜追録高祖・中宗功臣、襃顯先勳、紀其子孫。」帝納之。
行至長安、乃制詔京兆尹・右扶風求蕭何・霍光後。時光無苗裔、唯封何末孫熊為酇侯。建初二年已封曹參後曹湛為平陽侯、已封曹參後曹湛為平陽侯、故不復及焉*1
(『後漢書』列伝第十六、韋彪伝)


後漢の章帝の時、韋彪という人物が前漢の名臣蕭何や霍光の子孫を探し出して列侯にしましょうという進言した。


章帝はそれに従って子孫を探させたが、霍光の末裔は見つからず、蕭何の子孫は列侯にできたという。



先日このような(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20120910/1347207929)記事にしたように、やはり子の代になって反乱者として成敗された霍光の末裔は探すのが困難だったようだ。

*1:曹参の子孫はこの時「容城侯」だったという指摘がある。