id:gureneko氏が、このような記事を書いていた。
なるほど、魏明帝曹叡が曹操の祖父曹騰や曽祖父曹節を追尊しようとした裏には、曹叡様の誇り高き血統と絡んだ思惑があった、ということか。
そういえば、曹叡様についてはちょっと不思議なことがあった。
太和六年、明帝愛女淑薨、追封諡淑為平原懿公主、為之立廟。取后亡從孫黄與合葬、追封黄列侯、以夫人郭氏從弟悳為之後、承甄氏姓、封悳為平原侯、襲公主爵。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝)
曹叡様は自分の娘の領地と爵位を継がせるため、皇后郭氏の従弟を甄氏の養子としたというのである。
甄氏自体は男子が絶えて断絶したわけではないので、曹叡様はわざと異姓養子を取らせたのだ。
この時代、異姓養子がどこまで嫌われたか分からないが、当時の先祖崇拝や宗族意識などを考えれば、あまり歓迎されたことではないのではなかろうか。
幼い何晏が曹氏となることを徹底的に拒んだのは以前も紹介した。
つまり、曹叡様は母の実家甄氏にも、妻の実家郭氏にも歓迎されないことを敢えてしたのではないか、ということになる。
この裏にも、今までに私が何度か述べてきたような曹叡様の誇り高き血統が絡んでいるかもしれない。
最初に取り上げたid:gureneko氏の記事のように、こうして外戚に異姓養子の実例を作ることで、自分が異姓養子であるという公然の秘密に対する抵抗感を少しでも和らげようとしたということだ。
木を隠すには森の中、という奴である。
更には、曹叡様に対する抵抗勢力に対しても、「お前たちにも異姓養子を命じることができるのだぞ」という脅しの効果さえあったかもしれない。
異姓養子への批判・嫌悪は自分への、そして太祖武帝への中傷なのだから、表だって批判しにくいというわけだ。