曹参の末裔

子(曹)宗嗣、有罪、完為城旦。至哀帝時、乃封參玄孫之孫本始為平陽侯、二千戸、王莽時薨。子宏嗣、建武中先降河北、封平陽侯。至今八侯。
(『漢書』巻三十九、曹参伝)

十一世
侯曠嗣、今見。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、平陽懿侯曹参)


漢の高祖の功臣の筆頭、曹参。

彼は平陽侯に封建され、その子孫が代々受け継いでいたが、曹宗の代に一度途絶えた。


しかし哀帝の時代に復活し、王莽の時代にも平陽侯は生き延びた。


そして王莽の新が崩れ群雄割拠の時代になったとき、平陽侯曹宏は光武帝に降伏し、領土を安堵されたらしい。
後漢の時代になっても平陽侯が続いていることが表からも確認できる*1



詔曰「高祖功臣、蕭・曹為首、有傳世不絶之義。曹相國後容城侯無嗣。朕望長陵東門、見二臣之壠、循其遠節、毎有感焉。忠義獲寵、古今所同。可遣使者以中牢祠、大鴻臚求近親宜為嗣者、須景風紹封、以章厥功。」
(『後漢書』紀第四、孝和帝紀

だがその一方で、後漢和帝の時代には曹参の子孫は「容城侯」に封じられていたらしい。

いくら曹参の子孫でも何人も列侯になっていたとは考えにくいので、曹宏以降にどこかの段階で「平陽侯」から「容城侯」に改封されたと考える方が自然ではないだろうか。


漢書』曹参伝・高恵高后文功臣表に反することになるが、光武帝に降伏した時に光武帝からもらった爵位は「平陽侯」ではなく「容城侯」だったのかもしれない。



王沈魏書曰、其先出於黄帝。當高陽世、陸終之子曰安、是為曹姓。周武王克殷、存先世之後、封曹俠於邾。春秋之世、與於盟會、逮至戰國、為楚所滅。子孫分流、或家於沛。漢高祖之起、曹參以功封平陽侯、世襲爵土、絶而復紹、至今適嗣國於容城
(『三国志』巻一、武帝紀注引王沈『魏書』)

そして、魏末・晋初あたりでもどうやら曹参の子孫の「容城侯」は残っていたようだ。

*1:「今見」とは『漢書』が編纂された後漢のこと。