漢寿県と漢寿県

劉備據蜀、又分廣漢之葭萌・涪城・梓潼・白水四縣、改葭萌曰漢壽、又立漢徳縣、以為梓潼郡。割巴郡之宕渠・宣漢・漢昌三縣置宕渠郡、尋省、以縣並屬巴西郡。泰始三年、分益州、立梁州於漢中、改漢壽為晉壽、又分廣漢置新都郡。梁州統郡八、縣四十四、戸七萬六千三百。
(『晋書』巻十四、地理志上、梁州)

漢壽。故索、陽嘉三年更名、刺史治。
(『続漢書』志第二十二、郡国志四、武陵郡)

武陵郡。漢置。統縣十、戸一萬四千。
臨沅、龍陽、漢壽、沅陵、黚陽、酉陽、鐔城、沅南、遷陵、舞陽。
(『晋書』巻十五、地理志下、荊州


劉備は蜀を支配すると広漢郡の葭萌県を「漢寿」県と改称したそうだが、晋の時代になって「漢寿」は「晋寿」と改められたそうだ。




一方、武陵郡にも後漢中期の段階で「漢寿」県があったが、どうもこちらの「漢寿」は晋になっても改称されず、「漢寿」のままだったらしい。





どうでもいいことなのだが、どうして一方は改称されてもう一方は改称されないままになるのだろうか。



不思議な感じがする。