@sweets_street @yunishio @golden_hamster 廖立伝の諸葛亮の上書で、廖立が大将軍に随行していた時とあり、時系列的に夷陵の時で、誰のことなんだろうと。劉備が死んだ後で棺の側で刃傷沙汰起こしたというのはもしかして
— 松浦 桀さん (@HAMLABI3594) 5月 2, 2012
ふむ・・・今まで気にしてなかったが蜀で「大将軍」か・・・。
(所轄)亮集有亮表曰「(廖)立奉先帝無忠孝之心、守長沙則開門就敵、領巴郡則有闇昧闟茸其事、隨大將軍則誹謗譏訶、侍梓宮則挾刃斷人頭於梓宮之側。陛下即位之後、普筯職號、立隨比為將軍、面語臣曰『我何宜在諸將軍中!不表我為卿、上當在五校!』臣答『將軍者、隨大比耳。至於卿者、正方亦未為卿也。且宜處五校。』自是之後、怏怏懐恨。」詔曰「三苗亂政、有虞流宥、廖立狂惑、朕不忍刑、亟徙不毛之地。」
(『三国志』巻四十、廖立伝注引『諸葛亮集』)
おお、確かに諸葛亮の上奏文には「廖立は大将軍に従った時には誹謗中傷を行った」ということが書かれている。
だが、この大将軍とは何者のことなのか。
大司馬である劉備の可能性も無くはないかもしれないが、良くわからない。
とにかく、この頃の劉備政権内に「大将軍」という官位の者はいなかったように思う。
誰か別の官位の者(車騎将軍張飛など)を大将軍と呼んだのか、それとも記録に残らない大将軍がいたのか。
廖立については上記引用にある「劉備の棺のそばにいた時にはその棺の傍らで刃を握って人の首を切り落とした」という部分も気になるところ。
廖立はいったい何をしたんだろうか。
劉備すなわち皇帝の棺のそばでなんで誰かの首を切らなければならなかったのだろうか。