兄より優れた弟など

上庸太守申耽舉衆降、遣妻子及宗族詣成都。先主加耽征北將軍、領上庸太守員郷侯如故、以耽弟儀為建信將軍・西城太守、遷(劉)封為副軍將軍。
(『三国志』巻四十、劉封伝)

申儀叛封、封破走還成都。申耽降魏、魏假耽懐集將軍、徙居南陽、儀魏興太守、封員郷侯、屯洵口。
【注】
魏略曰、申儀兄名耽、字義舉。初在西平・上庸間聚衆數千家、後與張魯通、又遣使詣曹公、曹公加其號為將軍、因使領上庸都尉。至建安末、為蜀所攻、以其郡西屬。黄初中、儀復來還、詔即以兄故號加儀、因拜魏興太守、封列侯。
(『三国志』巻四十、劉封伝)


後漢末、上庸太守で員郷侯だった申耽は劉封らに攻められて降伏した。


劉備は彼に征北将軍を与え、上庸太守と員郷侯はそのままとした。

と同時に、申耽の弟の申儀を建信将軍・西城太守とした。




更にその後、申儀は劉封に叛いて魏に帰順し、劉封を撃退した。

申耽もまた魏に降伏した。


魏は申耽に懐集将軍を与えた上で南陽に置き、申儀に員郷侯を与えて魏興太守(上庸を分割再編した郡らしいので、つまりかつては兄が統治した地域の太守ということである)とした。



どうやら、申耽は列侯と太守を取り上げられてしまったようだ。

おそらく、申耽が劉備に降伏していたことと、劉封を破って魏に還ってきたのは申儀の功績とみなされたことで、申耽は立場を弱くしていたのだろう。


弟に列侯や太守を奪われた形になった兄申耽の心中いかばかりか。