県令と県長

前書百官表云、萬戸以上為令、萬戸以下為長。三邊始孝武皇帝所開、縣戸數百而或為令。荊・揚江南七郡惟有臨湘・南昌・呉三令爾。 及南陽穰中、土沃民稠、四五萬戸而為長。桓帝時、以汝南陽安為女公主邑、改號為令、主薨復復其故。若此為繫其本。俗説、令長以水土為之、及秩高下、皆無明文。班固通儒、述一代之書、斯近其真。
(応劭『漢官儀』)


漢書』によれば1万戸以上を領する県は「県令」、それより下は「県長」だという。


しかし武帝が開拓した辺境では、数百戸でも「県令」のところもある。

逆に荊州・揚州では「県令」は3県しかない。

南陽郡穰県は4、5万戸もあるが「県長」である。

汝南郡陽安県は公主の領地となった時だけ「県令」に格上げされ、公主の領地でなくなると元の「県長」に戻った。

これらは、元々の戸数に関係があるのである。



俗説では、「県令」「県長」と官秩の上下は地形によって決まってくると言うが、これには明文の根拠は無い。


ド偉い儒者班固さんの書いていることが真実に近いのである。




というわけで、漢代の県の長官の名前について、どうやら「最初は1万戸あった県は戸数が減少しても県令と呼ばれ、最初は1万戸なかった県が人口増加しても県長のままだった」ということを示しているように思われる。
戸数が1万を超えたらすぐに「県令」になるというわけではないということのようだ。