謝らない県令

後特徴為洛陽令。時湖陽公主蒼頭白日殺人、因匿主家、吏不能得。及主出行、而以奴驂乗、(董)宣於夏門亭候之、乃駐車叩馬、以刀畫地、大言數主之失、叱奴下車、因格殺之。
主即還宮訴帝、帝大怒、召宣、欲箠殺之。宣叩頭曰「願乞一言而死。」帝曰「欲何言?」宣曰「陛下聖徳中興、而縱奴殺良人、將何以理天下乎?臣不須箠、請得自殺。」即以頭撃楹、流血被面。
帝令小黄門持之、使宣叩頭謝主、宣不從、彊使頓之、宣両手據地、終不肯俯。
主曰「文叔為白衣時、臧亡匿死、吏不敢至門。今為天子、威不能行一令乎?」帝笑曰「天子不與白衣同。」因勑彊項令出。賜錢三十萬、宣悉以班諸吏。
由是搏撃豪彊、莫不震慄。京師號為「臥虎」。歌之曰「枹鼓不鳴董少平。」
(『後漢書』列伝第六十七、董宣伝)


後漢初期、世祖の時代。



後漢の初代世祖の姉である湖陽公主の奴隷が殺人を犯したが公主はその奴隷を匿った。その時の洛陽県令(公主が住んでいるのは当然都の洛陽であるから、管轄の県令ということである)董宣は公主を責め、直接の下手人である奴隷を殺した。



公主は弟である世祖に訴え出たため、世祖は怒って董宣を召し出し、鞭打って殺してしまおうとしたが、董宣は真っ向からこのことの非を唱えた上で自殺を図った。



世祖は彼を許し、董宣を力づくで公主に謝らせようとしたが、董宣は董宣でそれに抵抗して顔を下げようとしなかったという。



公主は「お前が無官の時は亡命者や死罪の者を匿っても官吏が家に立ち入ることもなかったのに、天子になった今、県令ひとり従わせることができないのかい?」と言い、弟は「天子は無官の者とは違うのですよ」と答えたのだとか。






最後には許して褒美まで取らせたり、姉の頼みを無碍に断ることもできないというあたり、世祖の聞く耳と肉親との板挟み状態が目につくところだが、無官の時代には亡命者や罪人を匿っていたという証言がなかなか面白い。



無官の頃というのは時代を考えると前漢末や王莽時代の事になるので、匿った罪人というのもことによると王莽に対する反乱者の残党だったりしたのかもしれないが、当時の豪族の実態の一端が垣間見えたようで、そこもまた面白い。