孫権暗殺計画

(赤烏八年)秋七月、將軍馬茂等圖逆、夷三族。
【注】
呉歴曰茂本淮南鍾離長、而為王淩所失、叛歸呉、呉以為征西將軍・九江太守・外部督、封侯、領千兵。權數出苑中、與公卿諸將射。茂與兼符節令朱貞・無難督虞欽・牙門將朱志等合計、伺權在苑中、公卿諸將在門未入、令貞持節稱詔、悉收縛之、茂引兵入苑撃權、分據宮中及石頭塢、遣人報魏。事覺、皆族之。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)


曹操劉備も暗殺計画や謀反の一つや二つは企てられていることは有名な話だし、このブログでも確か取り上げてきた。
そして当然孫権にもそんな経験がある。

まあ、その手のものは王や皇帝ともなれば勲章みたいなものだ。


孫権暗殺計画はどうやら狩猟の際を狙われたらしい。



それにしても、魏での県長が将軍・太守・封侯を貰っていることとか(もっとも、呉に降ってすぐにすべての地位を得たわけではないんだとは思うが)、孫権に近侍していたはずの符節令がこの暗殺計画に与していること、それとなんだか朱姓が目につくこと*1など、ちょっと面白い。

*1:三国志朱然伝によると馬茂の暗殺計画の後ご立腹の孫権に対し朱然が上奏しているというのが意味深に見えてくる。