『漢書』韋玄成伝その14

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110623/1308757201の続き。

歆又以為「禮、去事有殺、故春秋外傳曰『日祭、月祀、時享、歳貢、終王。』祖禰則日祭、曾高則月祀、二祧則時享、壇墠則歲貢、大禘則終王。徳盛而游廣、親親之殺也。彌遠則彌尊、故禘為重矣。孫居王父之處、正昭穆、則孫常與祖相代、此遷廟之殺也。聖人於其祖、出於情矣、禮無所不順、故無毀廟。自貢禹建迭毀之議、惠・景及太上寢園廢而為虚、失禮意矣。」

至平帝元始中、大司馬王莽奏「本始元年丞相義等議、諡孝宣皇帝親曰悼園、置邑三百家。至元康元年、丞相相等奏、父為士、子為天子、祭以天子、悼園宜稱尊號曰『皇考』、立廟、益故奉園民滿千六百家以為縣。臣愚以為皇考廟本不當立、累世奉之、非是。又孝文太后南陵・孝昭太后雲陵園、雖前以禮不復修、陵名未正。謹與大司徒晏等百四十七人議、皆曰孝宣皇帝以兄孫繼統為孝昭皇帝後、以數、故孝元世以孝景皇帝及皇考廟親未盡、不毀。此兩統貳父、違於禮制。案義奏親諡曰『悼』、裁置奉邑、皆應經義。相奏悼園稱『皇考』、立廟、益民為縣、違離祖統、乖繆本義。父為士、子為天子、祭以天子者、乃謂若虞舜・夏禹・殷湯・周文・漢之高祖受命而王者也、非謂繼祖統為後者也。臣請皇高祖考廟奉明園毀勿修、罷南陵・雲陵為縣。」奏可。


劉歆はまた上奏した。
「礼によれば事が終われば廃止する、と言います。春秋外伝では「毎日毎月先祖を祀り、時々遠い先祖にお供えし、」徳が郄ければ広く伝播するというのが親しい者を親しいとする際の廃止規定なのです。毎年地の神に貢物をし、王がこの世を去る時には大いに祭祀を行う」と言っています。孫が王の父のいたところに居るというのが昭穆の制なのです。聖人はその祖については情により決めているので、廟を廃止するというのは無いのです。貢禹の廟の廃止議論の中で、恵帝・景帝・太上皇の正殿や陵墓の維持をやめたのは礼の本意ではありません」

平帝の時、王莽は上奏した。
「本始元年に丞相蔡義は宣帝の父に悼と諡して守人として三百家の邑を置きました。元康元年に丞相魏相らは宣帝の父に皇考という尊号を奉り、廟を立て、千六百家を置いて県としました。
私が思うに皇考廟は立てるべきではなく、代々奉じているのは誤りです。また孝文太后の南陵・孝昭太后の雲陵は既に廃止されていますが、陵の名前がいまだ変わっておらず名実が合っていません。大司徒平晏ら147人と議論したところ、みな宣帝は昭帝を継いだものです。これが二つの系統となり父が二人となったものであり、礼に反しています。
思うに、蔡義が「悼」と諡し邑を置いたのは礼にかなっていますが、魏相が「皇考」と尊号を奉じ廟を立て県を作ったのは血統を混乱させるもので礼に反しています。
父が一般人で子が天子となったら父も天子として祀るというのは、虞舜・夏禹・殷の湯王・周の文王・漢の高祖といった創業の君主のことであり、本家を継いだ場合のものではありません。
皇考廟、および南陵・雲陵を廃止し、南陵・雲陵を県とするべきです」
この上奏は裁可された。



王莽登場。
王莽は「皇考とか変じゃね?」と言って宣帝の父の廟を廃止する。
これまで皇帝の直接の先祖ということでなかなか思い切ったことができなかったのだと思うが、王莽はあっさり廃止。さすが王莽。

皇帝の意思が反映されていないとも言うのかもしれないが。




原文の廟制部分はここまで。
次回はちょっと総括っぽいことをして終わるつもり。