『漢書』韋玄成伝その1

唐突だが、『漢書』巻七十三、韋玄成伝に何故か付属している前漢皇帝廟制度の沿革を抄訳してみることにする。

続けていくうちに普段なじみの薄い皇帝廟制度について理解が深まったり深まらなかったりするかもしれない。

初、高祖時、令諸侯王都皆立太上皇廟。至惠帝尊高帝廟為太祖廟、景帝尊孝文廟為太宗廟、行所嘗幸郡國各立太祖・太宗廟。至宣帝本始二年、復尊孝武廟為世宗廟、行所巡狩亦立焉。凡祖宗廟在郡國六十八、合百六十七所。而京師自高祖下至宣帝、與太上皇・悼皇考各自居陵旁立廟、并為百七十六。又園中各有寢・便殿。日祭於寢、月祭於廟、時祭於便殿。寢、日四上食。廟、歳二十五祠。便殿、歳四祠。又月一游衣冠。而昭靈后・武哀王・昭哀后・孝文太后・孝昭太后・衛思后・戻太子・戻后各有寢園、與諸帝合、凡三十所。一歳祠、上食二萬四千四百五十五、用衛士四萬五千一百二十九人、祝宰樂人萬二千一百四十七人、養犧牲卒不在數中。

漢の高祖の時代、諸侯王の都に太上皇廟を立てさせた。
恵帝の時になって高祖の廟を尊んで太祖廟とし、景帝は文帝の廟を太宗廟とし、行ったことのある郡・国にはそれぞれ太祖・太宗廟を立てさせた。
宣帝本始二年、武帝の廟を尊んで世宗廟とし、武帝が巡狩した地に立てさせた。
そこで太祖・太宗・世宗の廟が立っている郡・国は68、合わせて167か所となった。
また首都長安には高祖から宣帝までの皇帝、および太上皇・悼皇考がそれぞれ陵墓の側に廟を立てており合わせて176あった。また陵墓内には正殿と別の殿とがあり、毎日正殿において祭り、毎月廟において祭り、時々別殿で祭った。
正殿には毎日4回食べ物をお供えし、廟は年に25回祀り、別殿は年に4回祀った。
また月に一度祀られている皇帝の衣冠を外に出した。
また昭霊后・武哀王・昭哀后・孝文太后・孝昭太后・衛思后・戻太子・戻后にも陵墓があり、皇帝と合わせると30か所あった。
一年間の祭祀には2万4455食のお供えものと、4万5129人の衛士、祭祀担当や楽人が1万2147人が必要だった。これには祭祀用の犠牲となる家畜を養う人員は計算に入っていない。


漢の宣帝頃までの皇帝廟や関係祭祀についての概観。
これがどう変わっていくかというこれからの話の前提である。
寝殿」という陵墓内の正殿には皇帝の衣服・冠という正装が収められているらしい。
その寝殿や皇帝の遺体の眠る陵墓は常々祭祀が執り行われ、日夜お供え物が供えられる。もちろんお供え物といっても安い砂糖菓子などではなく、牛羊豚の肉を使う太牢が用いられたと思われるので、結構な経費がかかったことだろう。


太上皇は高祖劉邦の父。
昭霊后は高祖の母。
武哀王は高祖の兄。
昭哀后は高祖の姉。
孝文太后は文帝の実母薄氏。
孝昭太后は昭帝の実母趙氏。
衛思后は武帝の皇后にして宣帝の曾祖母衛子夫。
戻太子は武帝の長男にして宣帝の祖父劉拠。
戻后は戻太子との間に史皇孫を産んだ史氏。
悼皇考は別名史皇孫といい、宣帝の実父。戻太子と戻后の子。



ていうかすごく長いんですけど。もう続ける気力が無くなり始めてますよ?