法の抜け道

九月甲午、詔曰「夫婦人與政、亂之本也。自今以後、羣臣不得奏事太后、后族之家不得當輔政之任、又不得膻受茅土之爵。以此詔傳後世、若有背違、天下共誅之。」
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初三年)

魏の文帝は即位すると皇太后へ政治上のことを上奏することを禁じ、皇太后の親族が摂政となったり功績無くして爵位を得ることも禁じた。

漢代に皇太后外戚が権力を握り国を乱したのだ、という反省から再発を防ごうとしたのだろう。

これに違反した者は天下の者みなが誅討すべし、との命令まで付け加えている。



そんな禁令に対し、権力を握り簒奪への道をひた走る司馬師司馬昭兄弟はどう対応したか。
曹操が自分の娘を皇后とし、自らを外戚として地位を固めるという手法は封じられている。
太后外戚といった後宮・皇室の勢力において重要な役割を果たしうる地位を直接抑えることが困難になっているのである。

以夫人郭氏從弟悳為之後、承甄氏姓、封悳為平原侯、襲公主爵。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝)

晉諸公贊曰、(甄)悳字彥孫。司馬景王輔政、以女妻悳。妻早亡、文王復以女繼室、即京兆長公主。景・文二王欲自結于郭后、是以頻繁為婚。悳雖無才學、而恭謹謙順。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝注引『晋諸公賛』)

司馬兄弟は、明帝の皇后で当時も生存していた郭太后の血縁者で、なおかつ明帝の生母甄氏の爵位を継承するため甄氏を称するよう命じられていた甄悳と婚姻関係を結んだ。

司馬兄弟は、自分たちが直接外戚になることが出来ない(「后族之家不得當輔政之任」とあるので、外戚になったら権力の座に居られない)代わりに、外戚と自分たちを姻戚関係で結ぶことで後宮や皇太后への影響力を維持したのだと思われる。


抜け道というのは探せばあるものだ。