昨日の記事であるが、かつてこんな記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110404/1301842857)を書いていたことを失念していた。
つまり、昨日の記事における「平原侯」というのが魏の明帝曹叡様こと烈祖様なのはまず間違いないわけだが、同時に「平原王」から降格された後の称号であることも間違いないのである。
だから昨日の記事を素直に読めば、これは烈祖様が曹丕によって「平原侯」に降格されてからの話ということになるのだろう。
ということは当然「相当に評判に傷が付いていた」状態であるわけだ。
もっと言うと、そんな状態で敢えて臣下に「平原侯」について聞くという事は、これはもしかすると曹丕は降格以上の厳しい処分をも考えていて、そのための意見聴取だったということかもしれない。
東海王霖を寵愛していたことが記されるのは、直前までは嫡子扱いしようとしていた「平原侯」を完全に廃嫡というか完全にしまっちゃって東海王霖を後継にしようかな、と思っていたということなのだろうか。
取りとめのない話になってしまったが、考えをまとめる過程だと思ってもらえれば。