黄武二年、封石城侯、遷昭武將軍、領冠軍太守、後又加都督之號。將敢死及解煩兵萬人、討丹楊賊、破之。會病卒、子綜襲侯領兵。
(『三国志』巻五十五、韓当伝)
ということは、「冠軍郡」というものが置かれたということだろうか。
冠軍県は南陽郡内にあったとされているが、韓当が太守になったのはその近辺なのだろうか*1。
それとも別の場所にそういう名前の郡が置かれたのだろうか。
どうも自分の調べではここ以外に「冠軍太守」や「冠軍郡」の存在を示す記事が見つからないのでよく分からない。
*1:もちろん、当時の呉がそのあたりを統治できていた、あるいは影響力を行使できたのか、という問題がある。