孝婦の悲劇

于定國字曼倩、東海郯人也。其父于公為縣獄史、郡決曹、決獄平、羅文法者于公所決皆不恨。郡中為之生立祠、號曰于公祠。
東海有孝婦、少寡、亡子、養姑甚謹、姑欲嫁之、終不肯。姑謂鄰人曰「孝婦事我勤苦、哀其亡子守寡。我老、久累丁壮、奈何?」其後姑自經死、姑女告吏「婦殺我母。」吏捕孝婦、孝婦辭不殺姑。吏驗治、孝婦自誣服。具獄上府、于公以為此婦養姑十餘年、以孝聞、必不殺也。太守不聽、于公爭之、弗能得、乃抱其具獄、哭於府上、因辭疾去。太守竟論殺孝婦。
郡中枯旱三年。後太守至、卜筮其故、于公曰「孝婦不當死、前太守彊斷之、咎黨在是乎?」於是太守殺牛自祭孝婦冢、因表其墓、天立大雨、歲孰。郡中以此大敬重于公。
(『漢書』巻七十一、于定国伝)

前漢時代丞相になった于定国の父、于公。
彼は東海郡において裁判を担当し、その公平さで既に生きながら祠を作られる伝説の男だった。

そんな彼が出くわした事件があった。
東海郡に夫に先立たれた女性がいた。彼女は残された姑を世話し、姑が勧めても再婚しようとしない。
姑は「私がまだ若い嫁の重荷になってはいけない」とこぼし、後日自殺してしまった。

この老女の実の娘は嫁が犯人だと訴えた。嫁は当初否認したが、当時の取り調べはイコール拷問である。結局嫁は自分が犯人だと「自供」した。

名裁判官于公はこの「自供」を怪しみ、彼女は孝婦であるから犯人ではないだろうと反対したが、当時の太守は聞き入れず彼女を処刑してしまった。


その後、東海郡は三年も日照りに苦しみ、次の太守が原因を究明しようとしたところ、于公は三年前の事件が原因だと言い、彼女を弔い名誉回復してやったところたちどころに雨が降り出した、という。



まあ、状況から見たら嫁が誰よりも怪しいし、自殺だとしても動機が高尚過ぎて常人には理解しにくいというものだから、処刑した太守も一概に責められない気もする。
身体は子供頭脳は大人の名探偵あたりがいれば真相が暴かれてこの嫁は死なずに済んだだろうか。


しかし、個人的にはこの話で一番思ったのは「冤罪怖い」である。
現代ではこんな悲劇は起こらないと信じたいものだ。