日南郡

三十三年、發諸嘗逋亡人・贅壻・賈人略取陸梁地、為桂林・象郡・南海以適遣戍。
(『史記』秦始皇本紀、始皇帝三十三年)

秦已破滅、(趙)佗即撃并桂林・象郡、自立為南越武王。
(『史記』南越列伝)

秦の始皇帝の時代。始皇帝は南方にも兵を送り、桂林郡・象郡・南海郡を建てた。
しかし秦が滅びる頃、この地にいた趙佗が自立して国を建てた。これが南越である。

遂定越地、以為南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠突・儋耳郡。
西南夷、以為武都・牂柯・越嶲・沈黎・文山郡。
(『漢書武帝紀、元鼎六年)

日南郡。故秦象郡、武帝元鼎六年開、更名。
(『漢書』地理志下)

漢の武帝はその南越を滅ぼし、越の地に南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠突・儋耳郡を建てた。
そのうち日南郡はかつての象郡だと書かれており、武帝が建てた郡に象郡が含まれないことから、この時に象郡は廃止されたのかと思う。



が、実はどうもそうではないらしい。

秋、罷象郡、分屬鬱林・牂柯。
(『漢書』昭帝紀、元鳳五年)

象郡は武帝の時代は残っていたようだ。次の昭帝の時になって初めて消滅したことになる。


これはどういうことかと言うと、秦代象郡の地は武帝の時に分割されて鬱林・交阯・九真・日南といった郡が建てられたが、おそらく新たな郡にならず、象郡がそのまま残った地もあったということだろう。
日南郡は秦代象郡の一部でしかないのだ。
そして、分割された残りである漢代象郡も結局長続きせず、昭帝の時代に廃止された、ということである。