張温一族の処遇

後六年、(張)温病卒。二弟祗・白、亦有才名、與温俱廢。
(『三国志』張温伝)

三国呉の張温は、暨豔と共に失脚し、孫権によれば「不忍暴於巿朝、今斥還本郡、以給廝吏。嗚呼温也、免罪為幸」と、命は助けられたが郷里に戻され事実上の幽閉生活を送ったということらしい。


その弟の張祗、張白という者も連坐したようだが、彼らの処遇は兄ほどはぬるくなかったらしい。

(陸)績於鬱林所生女、名曰鬱生、適張温弟白。姚信集有表稱之曰・・・年始十三、適同郡張白。侍廟三月、婦禮未卒、白遭罹家禍、遷死異郡。鬱生抗聲昭節、義形於色、冠蓋交膻、誓而不許、奉白姊妹嶮巇之中、蹈履水火、志懷霜雪、義心固於金石、體信貫於神明、送終以禮、邦士慕則。
(『三国志』陸績伝注)


張白の妻となったのは蜜柑の人陸績の娘鬱生だったが、婚礼も完了しないうちに張白は「遷死異郡」、つまりおそらくは辺境に配流されて死んだということらしいのだ。
鬱生はしかし張白に操を立て、張白の姉妹に付き従って険阻な地を行き、艱難辛苦に甘んじたという。
ということは、張温の姉妹もまた配流されたのだろう。

文士傳曰、温姊妹三人皆有節行、為温事、已嫁者皆見録奪。其中妹先適顧承、官以許嫁丁氏、成婚有日、遂飲藥而死。呉朝嘉歎、鄉人圖畫、為之贊頌云。
(『三国志』張温伝注引『文士伝』)

ちなみに張温の姉妹はこの時に夫と強制離縁させられ、別の者と婚姻させられそうになったという。
鬱生が付き従ったのはこの張温の姉妹なのだろうか。