諸葛恪の政策

(諸葛)恪更拜太傅。於是罷視聽、息校官、原逋責、除關税、事崇恩澤、衆莫不悦。恪每出入、百姓延頸、思見其状。
(『三国志』諸葛恪伝)

呉の孫権が死ぬと、諸葛恪が政治の実権を握った。
彼は「視聽」「校官」を廃止し、逃亡者への責めを緩め、関税をやめたので、人々はみな喜んだという。

「視聽」がなんであるかはっきりわからないが、おそらくは監察官かスパイのような存在だろう。
「校官」は監督、監察の官であろう。


諸葛恪が廃止するまでの孫権支配下の呉ではそういう官が存在し、それを嫌がる者が少なくなかったということになる。
もっとも魏にも「校事」という官があったらしいので、呉だけの特殊事情でもなさそうだが。

また「原逋責」の「逋」とは逃げる、税を払わない、という意味。
つまり税を払わず(払えず)に逃げた人間を捕まえ罰するという、ある意味では当然の行為を嫌がる者が多かったということである。
これはそれくらい重税で誰もが逃亡を企てていたからなのか、それとも逃亡した人間を受け入れて隷民にする豪族にとって、対逃亡者を厳しくされると隷民の成り手が減るから困るということだったのか。
どちらとも取れるように思う。