新室賓

(王)莽乃策命孺子曰「咨爾嬰、昔皇天右乃太祖、歴世十二、享國二百一十載、暦數在于予躬。詩不云乎?『侯服于周、天命靡常』封爾為定安公、永為新室賓。於戲!敬天之休、往踐乃位、毋廢予命」又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘、凡戶萬、地方百里、為定安公國。立漢祖宗之廟於其國、與周後並、行其正朔・服色。世世以事其祖宗、永以命紱茂功、享歴代之祀焉。以孝平皇后為定安太后」讀策畢、莽親執孺子手、流涕歔欷曰:「昔周公攝位、終得復子明辟、今予獨迫皇天威命、不得如意!」哀歎良久。中傅將孺子下殿、北面而稱臣。百僚陪位、莫不感動。
(『漢書』王莽伝中)

王莽は皇帝に即位した直後、次の漢皇帝とされていた孺子嬰を定安公という封邑一万戸の諸侯に封じ、「新室の賓」ということにした。
漢が殷王と周王の子孫を「賓」として捨扶持を与えていたのと同様の措置であり、後の時代で言えば後漢献帝がまるでそっくりな待遇を受けている。


ところで、王莽は「周公旦は天子の地位を代行してもちゃんとその地位を返すことができたのに、ボクは天が皇帝になれと命令するから返すこともできないよーオロローン」とむせび泣いている。
本心ではないだろうとそれを見聞きした者のほとんどは思ったことだろうが、そういうポーズを取ることが当時の新米皇帝には必要だったのだろう。

禅譲で皇帝になった者は、めでたく皇帝になった後も「本当はやるつもりはなかったんだけど母が勝手にオーディションに応募して、受けてみたら『You事務所に入ればいいじゃん』って電話が来た」という謙虚なポーズを見せておく必要があるということらしい。