都督青州諸軍事

王基字伯輿、東萊曲城人也。少孤、與叔父翁居。翁撫養甚篤、基亦以孝稱。年十七、郡召為吏、非其好也、遂去、入琅邪界游學。黄初中、察孝廉、除郎中。是時青土初定、刺史王淩特表請基為別駕、後召為祕書郎、淩復請還。
(『三国志』王基伝)

「是時青土初定」とある。黄初年間、つまり魏王朝成立直後の段階で、少なくとも『三国志』の認識では青州は平定されたばかりなのだ。


しかし臧霸らが徐・青州の一部を曹操より委ねられてから二十年以上、袁譚という敵対する青州刺史が消えてからも二十年近くが経過している。
いつの時期をもって青州は平定された、と認識されているのだろうか。

魏略曰(略)會太祖崩、(臧)霸所部及青州兵、以為天下將亂、皆鳴鼓擅去。文帝即位、以曹休都督青・徐、霸謂休曰「國家未肯聽霸耳!若假霸步騎萬人、必能膻行江表」休言之於帝、帝疑霸軍前擅去、今意壯乃爾!遂東巡、因霸來朝而奪其兵。
(『三国志臧霸伝注引『魏略』)

そこで思い出すのが、魏の文帝初期に都督青州諸軍事だった臧霸が解任されるに至ったことである。
この一連の解任劇により、臧霸は事実上青州・徐州の統括から外されたことになる。

もしかすると、『三国志』王基伝の表現は、臧霸時代の青州は平定されたものとはみなさず、臧霸解任により直轄化されて初めて平定されたものとみなしてのものかもしれない。