魏の王公

徙鄴典農中郎將。時魏世王侯多居鄴下、尚書丁謐貴傾一時、並較時利。(石)苞奏列其事、由是益見稱。歴東萊・琅邪太守、所在皆有威惠。遷徐州刺史。
(『晋書』巻三十三、石苞伝)

魏では王侯は多くが鄴のあたりに住んでいたのだという。



時期からすると尚書丁謐がブイブイ言わせてた頃、つまり曹爽が権力を握っていた時代だろうか。


そして「王侯」という事は、曹氏の血統の者が数多くいたのだろうと考えられる(当時「王」は曹氏しかいない)。



夏四月、帝自帥中軍、汎舟沿流、九日而到甘城。(王)淩計無所出、乃迎於武丘、面縛水次、曰「淩若有罪、公當折簡召淩、何苦自來邪!」帝曰「以君非折簡之客故耳。」即以淩歸于京師。道經賈逵廟、淩呼曰「賈梁道!王淩是大魏之忠臣、惟爾有神知之。」至項、仰鴆而死。收其餘黨、皆夷三族、并殺彪。
悉録魏諸王公置于鄴、命有司監察、不得交關。
(『晋書』巻一、宣帝紀

その後、曹爽を排除、次いで王淩を捕えた司馬懿は、魏の王公を鄴に置いて監視した、という。これもすなわち曹氏である。





上の二つの記事を合わせて考えてみると、司馬懿の措置は「各地にいた曹氏を鄴に全部集めた」かと思っていたが、もしかしたら多くの王公にとっては「元からいた鄴から特に動く事はなく、ただ監視の目が厳しくなった」だけかもしれない。



しかも、曹丕や烈祖様こと曹叡様の時代も王公への監視の目は十分厳しかったようなので、監視も大して変わりなかった可能性もあるのかもしれない。