荊州で劉備が曹操から逃げる時、劉備たちは襄陽も江陵も占拠できることを前提に語っているのって、よく考えると不思議な話じゃないだろうか。
諸葛亮の勧めに対し劉備は「吾不忍也」とは言っているが、軍事的な不可は言っていない。
襄陽は劉琮らがいたはずなのだが、それでも劉備はその気にさえなれば占拠できるという認識だったように思う。
江陵にしても、劉備も曹操も「江陵の守将に阻まれる」とは考えていないように見える。
こちらも劉備が行きさえすれば占拠は確実、という認識だったのだろうか?あるいは、そもそも劉備に与するであろう人物が守っていたのだろうか?
劉備側は士気の維持などのため楽観的なのかもしれないし、曹操側は最悪の事態を考慮しての発言かもしれないが、その点で攻守ともに意見が一致していることになる。