上柱国

黥布反、以車騎將軍先出、攻布別將於相、破之、斬亞將樓煩將三人。又進撃破布上柱國軍及大司馬軍。又進破布別將肥誅。
(灌)嬰身生得左司馬一人、所將卒斬其小將十人、追北至淮上。益食二千五百戸。
(『史記』樊酈滕灌列伝)

前漢初め、高祖劉邦配下の騎将であった灌嬰は、かの黥布(英布)が反乱した際、黥布の上柱国の軍や大司馬の軍を破ったという。


この「上柱国」「大司馬」は当時の漢の制度には無い官名である。

これらは少なくとも秦末の楚には見える官名なので、黥布の上柱国・大司馬もその楚の制度によるものだと思われるのだ。


これは黥布が当初から楚制を使うことを高祖に許されていたものなのか、それとも漢に反乱した段階で漢を否定し、楚制に基づく官名に変更したものなのか。
おそらく後者ではないかとは思うが・・・。