秦王子嬰の正体

閻樂歸報趙高、趙高乃悉召諸大臣公子、告以誅二世之狀。
曰「秦故王國、始皇君天下、故稱帝。今六國復自立、秦地益小、乃以空名為帝、不可。宜為王如故、便。」
立二世之兄子公子嬰為秦王。
以黔首葬二世杜南宜春苑中。
令子嬰齋、當廟見、受王璽。齋五日、子嬰與其子二人謀曰「丞相高殺二世望夷宮、恐群臣誅之、乃詳以義立我。我聞趙高乃與楚約、滅秦宗室而王關中。今使我齋見廟、此欲因廟中殺我。我稱病不行、丞相必自來、來則殺之。」
高使人請子嬰數輩、子嬰不行、高果自往、曰「宗廟重事、王柰何不行?」子嬰遂刺殺高於齋宮、三族高家以徇咸陽。
(『史記』秦始皇本紀)

秦の二世皇帝が趙高に殺された後、趙高は「二世之兄子」子嬰を後継者に立てた。
しかし子嬰は逆に趙高を暗殺し、手遅れではあったが実権を奪い返した。

ところで、二世皇帝の兄の子ということは始皇帝の孫である。
始皇帝は生きていればこの時五十三歳。孫が成人するくらいになっていてもまあ不思議ではない。

が、「子嬰與其子二人謀」とあるように子嬰は自分の子と趙高暗殺について相談している。
子嬰には、趙高暗殺についてなんらかの助けになるような、一緒に相談するような年齢の子がいたのだ。

これでは流石に子嬰を始皇帝の孫というのは少々無理があるのではないか。

留三日、趙高詐詔衛士、令士皆素服持兵內郷、入告二世曰「山東群盜兵大至!」二世上觀而見之、恐懼、高既因劫令自殺。
引璽而佩之、左右百官莫從。上殿、殿欲壞者三。
高自知天弗與、群臣弗許、乃召始皇弟、授之璽。
(『史記』李斯列伝)

このように李斯列伝では子嬰のことを「始皇弟」としているのだが、こっちの方が年齢的にはよほどリアリティがある。
また仮に例の始皇帝の実父は呂相国という流言が当時から知られていたとしたら、「王統を本来の血筋に戻す」という観点から、始皇帝の直系ではなく傍系を選んできたことに重大な意味があったかもしれない。