『三国志』では分からない事績

(薛)衍生兗州別駕蘭、為曹操所殺。子永、字茂長、從蜀先主入蜀、為蜀郡太守。永生齊、字夷甫、巴・蜀二郡太守、蜀亡、率戸五千降魏、拜光祿大夫、徙河東汾陰、世號蜀薛。
(『新唐書』宰相世系表三下、薛氏、南祖房)

三国志の時代、兗州牧時代の曹操呂布の戦いの中で曹操に敗れて殺された兗州別駕薛蘭。

新唐書』宰相世系表によれば、その子を薛永といい、どこをどうしてそうなったのかよく分からないが劉備に従って蜀に入り、そこで二代に渡って蜀に仕えたのだという。
そして蜀が滅びると薛永の子である薛斉は降伏して河東郡汾陰に移住させられ、彼らは「蜀薛」と呼ばれるようになったという。
蜀の人で蜀滅亡後に河東に移住させられた例は劉林(劉封の子)などがあるので、それと同じ措置なのだろう。