秦の郡国制

丞相綰等言「諸侯初破、燕・齊・荊地遠、不為置王、毋以填之。請立諸子、唯上幸許」
始皇下其議於群臣、群臣皆以為便。
廷尉李斯議曰「周文武所封子弟同姓甚衆、然後屬疏遠、相攻撃如仇讎、諸侯更相誅伐、周天子弗能禁止。今海內頼陛下神靈一統、皆為郡縣、諸子功臣以公賦稅重賞賜之、甚足易制。天下無異意、則安寧之術也。置諸侯不便」
始皇曰「天下共苦戦闘不休、以有侯王。頼宗廟、天下初定、又復立國、是樹兵也、而求其寧息、豈不難哉!廷尉議是」
(『史記』秦始皇本紀)

秦の始皇帝の統一直後、朝廷では始皇帝の諸子を遠方の各地に王として封建すべしという議論があった。
この論は丞相以下群臣のほぼ総意であったという。
廷尉李斯の異議に始皇帝が賛同したために王は置かれなかったわけだが、逆に言うと当時の秦においても皇帝の肉親を諸侯王とするという後の漢と同じ郡国制が志向されていたのだ。

そうなると、何故始皇帝は群臣の意見に逆らって諸侯王を置かなかったのかという疑問が生じる。
長安成蟜や実母の王太后、相国呂不韋といった近親の謀反や野望に悩まされたがためだろうか。