さかのぼり前漢情勢33

このままフェードアウトするんじゃないのかと自分でも思ってたhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100327/1269654941の続き。


漢の景帝の前は文帝。文帝後元年以降について。


漢の文帝は元年から十七年目に改元し、再度元年を称した。
この二度目の元年を後元年と呼んでいる。

十七年、得玉杯、刻曰「人主延壽」。
於是天子始更為元年、令天下大酺。
其歲、新垣平事覺、夷三族。
(『史記』孝文本紀)

この改元は、新垣平という人物の自作自演で「人主延寿」という文字が刻まれた玉杯を献上する者があり、それを瑞祥と思い文帝が改元したのだという。
つまり文帝はかつての始皇帝や孫の武帝がそうだったように自分の寿命を延ばすことに惑わされたのである。

これが景帝時代の三度の改元武帝時代の元号制定に繋がるわけだが、その出発点は少々締まらないものだったと言えるかもしれない。


また、文帝時代というとあの呉楚七国の乱前夜ということになるが、文帝は呉王をなだめすことに徹していた。
しかし全くの逃げ腰だったわけではなく、むしろいずれ反乱することを見越しつつ迎え撃つ準備をしていたと見るべきだろう。

文帝之後六年、匈奴大入邊。乃以宗正劉禮為將軍、軍霸上、祝茲侯徐窅為將軍、軍棘門、以河內守亞夫為將軍、軍細柳、以備胡。
上自勞軍、至霸上及棘門軍、直馳入、將以下騎送迎。已而之細柳軍、軍士吏被甲、銳兵刃、彀弓弩、持滿。
天子先驅至、不得入。先驅曰「天子且至!」軍門都尉曰「將軍令曰『軍中聞將軍令、不聞天子之詔』」居無何、上至、又不得入。於是上乃使使持節詔將軍「吾欲入勞軍」亞夫乃傳言開壁門。壁門士吏謂從屬車騎曰「將軍約、軍中不得驅馳」於是天子乃按轡徐行。
至營、將軍亞夫持兵揖曰「介冑之士不拜、請以軍禮見」天子為動、改容式車。使人稱謝「皇帝敬勞將軍」成禮而去。既出軍門、群臣皆驚。文帝曰「嗟乎、此真將軍矣!曩者霸上・棘門軍、若兒戲耳。其將固可襲而虜也。至於亞夫、可得而犯邪!」稱善者久之。
月餘、三軍皆罷。乃拜亞夫為中尉。
孝文且崩時、誡太子曰「即有緩急、周亞夫真可任將兵」文帝崩、拜亞夫為車騎將軍。
(『史記』絳侯周勃世家)

文帝が匈奴の侵入に対して将軍を任命し兵を長安近辺に展開した際、文帝は軍の視察に訪れた。
しかしかの周勃の子である周亜夫の軍は文帝を軍営に入れず、周亜夫の命令を聞いて初めて門を開いた。
また将軍周亜夫もあえて皇帝に対して通常の礼ではなく軍礼を行った。
同行した者たちは驚いたが、文帝は彼こそ軍事を知る者であると喜び、彼を皇太子に託したという。

皇太子つまり景帝に対する「もし緩急あらば」という言葉は、明らかに呉・楚らの諸侯王の反乱を指している。
文帝は景帝のために反乱を鎮圧できる名将を見出していたのだ。
文帝健在時にいきなり反乱することは勝算も無く可能性が低いが、景帝に世代交代した直後が危ない。
だからこそ、景帝時代に起こるだろう反乱を鎮圧するための準備を怠ってはいなかった。
文帝は景帝になってから反乱を一網打尽にしようと、わざと自分の時代には呉に対して下手に出ていたのかもしれない。


こういう観点から見ると、文帝の有名な遺詔にも対呉戦略があったかもしれないと思える。

遺詔曰「(略)其令天下吏民、令到出臨三日、皆釋服。毋禁取婦嫁女祠祀飲酒食肉者。自當給喪事服臨者、皆無踐。絰帶無過三寸、毋布車及兵器、毋發民男女哭臨宮殿。宮殿中當臨、皆以旦夕各十五舉聲、禮畢罷。非旦夕臨時、禁毋得擅哭。已下、服大紅十五日、小紅十四日、纖七日、釋服。(略)
(『史記』孝文本紀)

文帝は自分の死去に対する服喪について、最大三十六日ですべて終わらせるようにという命令を出した。
これは吏民の負担を軽減するという慈悲心と同時に、服喪期間による政治的空白や経済的負担を減らし、呉に付け入る隙を与えないようにするという戦略的な側面もあったのではなかろうか。
この時期は天下泰平の時代ではなく、現実に三年後には戦争が起こるという不穏な情勢なのである。


個人的には、冷徹で現実的な政策を取りつつ表向きには仁者の顔を見せられるというあたりに、文帝の凄さがあると思う。