さかのぼり前漢情勢32

忙しい年度変わりの時期に人事異動を集中させるって一種の嫌がらせだと思うhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100323/1269270146の続き。


漢の景帝、前元年から中元年まで。

この時期、前三年に前漢最大の内乱、呉楚七国の乱が発生している。

呉は中原から遠方ながら銅山と塩という富によって栄え、賦役を課さなかったという。そのため漢の直轄領や他国の土地を捨てて移住する民が後を絶たなかった。

漢王朝と諸侯王の力関係は次第に漢優位に傾いていたとはいえ、この傾向が続くのは漢王朝にとって当然許せるものではなかったのだ。

そこで漢王朝は他の諸侯王の分割や領地の剥奪などで敵に回るかもしれない諸侯王を弱めつつ、来るべき呉との対決のため準備を進めていた。

元年四月乙卯、赦天下。
乙巳、賜民爵一級。
五月、除田半租。
為孝文立太宗廟。
令群臣無朝賀。
匈奴入代、與約和親。
二年春、封故相國蕭何孫係為武陵侯。
男子二十而得傅。
四月壬午、孝文太后崩。
廣川・長沙王皆之國。
丞相申屠嘉卒。
八月、以御史大夫開封陶青為丞相。
彗星出東北。
秋、衡山雨雹、大者五寸、深者二尺。熒惑逆行、守北辰。月出北辰輭。歲星逆行天廷中。
置南陵及內史祋祤為縣。
(『史記』孝景本紀)

乱勃発直前の記事を見ても、漢王朝は明らかに呉を意識している。

田租の半免は民に対して漢への忠誠を改めて確認するための「アメ」であり、一方でより多数を動員するためであろう、徴兵年齢を引き下げている(注に「索隱音附。荀絓云「傅、正卒也」小顏云舊法二十三而傅、今改也」とあるように、「男子二十而得傅」は徴兵年齢引き下げを指すようだ。)。

広川王や長沙王は景帝の息子である。彼らはまさしく「藩屏」であり、呉・楚や斉・趙が反乱した場合に反乱者に立ち向かうことが期待されているのだ。
この時期、広川王や長沙王だけでなく、景帝の息子を河間王、臨江王、淮陽王、汝南王にそれぞれ封建している。
どの領地も漢の本拠地関中と反乱の主力と目される呉・楚・斉・趙の中間に位置する。そこに景帝の息子を配置することで、東方全域が一気に反乱側に傾くことを避けると共に、反乱軍の侵攻を抑えたり多少なりとも分散させることができるということだろう。

また、匈奴との和親も実はただごとではなかった。

御史大夫青(翟)至代下與匈奴和親。
(『漢書』景帝紀

史記』では書いていないのだが、『漢書』を見る限りではこの時の和親は副宰相である御史大夫が派遣されている。単なる使者ではなく、副宰相本人が出ているというのがこの時の和親の重要性、漢の本気度を示していると言えるだろう。
乱勃発時には匈奴は反乱に加担した趙王の誘いに乗ろうとした形跡もあるが、少なくとも積極的に漢を攻めようとはしていなかったようであるから、それなりに意味はあったのだろう。


もとより景帝に後継ぎを殺害された恨みのある呉王は諸侯王たちを誘い、膠西王ら斉の諸王や趙王、楚王らと共に反乱を企てた。
そして呉王に銅山のある豫章郡を取り上げるという命令が届いたのをきっかけにしてついに反乱が決行される。
時に景帝前三年正月。

漢は軍才を文帝に認められていた周亜夫を討伐軍の大将とし、同時に抑えとして外戚竇嬰を同格として後方に置いた。
呉王の軍は三月までには敗走し、呉王は東越に逃げ込んだがそこで暗殺されて首は漢に届けられた。
斉や趙はもう少し粘ったが各個撃破されて壊滅。


終わってみれば漢の横綱相撲であったと言えよう。
だが、その横綱相撲はそれまでの漢が強固な体制の構築と国力増強のための戦略を誤らず、警戒や準備を怠らなかった賜物である。
それまでの君主たちが一人でも道を誤っていたら、どうなるかわかったものではなかったのではないかとすら思う。