さかのぼり前漢情勢26

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前漢武帝時代、元封の前の元号は元鼎。
この六年間は武帝のライフワーク対匈奴は小休止という感じだったが、それ以外では中々面白いことが起こっている。

四年冬十月、行幸雍、祠五畤。賜民爵一級、女子百戸牛酒。行自夏陽、東幸汾陰。
十一月甲子、立后土祠于汾陰脽上。禮畢、行幸滎陽。還至洛陽、詔曰「祭地冀州、瞻望河洛、巡省豫州、觀于周室、邈而無祀。詢問耆老、乃得孽子嘉。其封嘉為周子南君、以奉周祀。」
(『漢書武帝紀、元鼎四年)

武帝は元鼎四年に河東郡の汾陰において后土を祀った。
大地の神を祀り、豊作を祈るのである。
ちなみにこの祭祀はあの司馬談のような当時の儒者たちも支持あるいは推進したものである。
天子は最高位の神官でもある。天地の祭祀を整備するのは天子の責務と言えるだろう。


また、周王の子孫を探し出して領土を与え、周の祭祀を継続させることとした。

興滅國、繼絕世、舉逸民、天下之民歸心焉。所重民食喪祭。
(『論語』堯曰第二十)

あの孔子こと孔丘先生もこう言っている。
「滅んだ国を再興し、絶えた家系を継続させ、世間から隠れている者を取り上げれば、天下の人々は心を寄せるだろう」

武帝による「周子南君」封建は単なる道楽でも復古主義でもない。
人々が心を寄せる聖天子として、「滅んだ国を再興し、絶えた家系を継続させ」るのは当然の行いなのだ。


この二つの措置から、この時期の武帝が自らを聖天子にふさわしい行動、政策を意識して実行していたことが読み取れる。


対外的には、武帝の目は匈奴ではなく南方に向いていた。
武帝は反覆を繰り返す南越のお家騒動に乗じる形で南越を征服し、更には西南夷まで征服してしまった。
南の南越、西の西南夷は征服した。
東と北を服属させれば、武帝は四方の「まつろわぬ民」すべてを平らげたことになる。
これまた黄帝などの古の聖天子と同じ天下泰平をもたらした証である。


と、武帝はこのような聖天子を目指した一方で、征服戦争や祭祀のための施設整備など何かと物入りで財政は極めて厳しい状態であった。
もちろん、詐欺的手段を含めてありとあらゆる収入増加のための策が実行されていた。
そんな中、こんな事件が起こる。

九月、列侯坐獻黃金酎祭宗廟不如法奪爵者百六人、丞相趙周下獄死。
(『漢書武帝紀、元鼎五年)

列侯の多くは高祖時代の功臣の子孫であった。もちろんそれなりの領土を持つ貴族様である。
元鼎五年、漢は酎祭という祭祀の際に列侯が献上すべき黄金の質が悪かったことを理由に、一挙に百人以上を罪に落として領土を奪った。
漢代、「酎金」とだけ書けばこの事件のことだと分かったというほどの大事件である。

この年の祭祀だけ急に献上品の質が悪くなったとは思えない。
今までお目こぼししていたのを、この時は抜き打ちで極めて厳格に取り締まったのだろう。
ある種のだまし討ちである。
しかし祭祀が理由で、しかも丞相が責任取らされていては、誰も文句が言えない。

つまり、土地の直轄化や継続する戦争で新たに生まれた功臣へ配分する土地への転用などのため、とても乱暴な方法で列侯のリストラを行ったのである。


これにより高祖時代に列侯となった功臣の子孫で列侯の地位を保っていた者はほとんど絶えた。
前向きな言い方をすれば、旧時代の残滓を洗い流して新時代へと完全にバージョンアップしたと言えなくもない。
なりふり構わず臣下の財産を国庫に入れるための仕組まれた事件だったという方が妥当だとは思うが。